久秀が援軍さえ呼ばなければ…
1577(天正5)年の「信貴山城の戦い」の際、久秀軍は約8000、信長軍は4万だったと伝わっている。兵力差は歴然だ。劣勢を挽回するため、久秀は信長と敵対する石山本願寺に援軍を要請。そして200人の鉄砲隊が信貴山城に派遣されたという。
久秀が信貴山城に立て籠ったのは8月だが、信長軍による本格的な攻撃が始まったのは10月5日、自害し落城したのは10月10日だ。
その間の9月23日に、手取川の戦いで信長軍が謙信に完膚なきまでに叩きのめされている。ということは、なんとか持ちこたえていれば状況は逆転する可能性は大いにあった。もし、もともと謙信の動きに呼応して謀反を起こしたのであれば、なおさらだ。石山本願寺からの援軍は10月5日に要請され、10月8日に信貴山城に入城している
これだけ堅固な城で鉄砲隊の援軍も得られたのであれば、5倍の兵を相手にしても持ち堪えられるのではないか。ところが、この鉄砲隊200がワナだった。彼らを引き連れたのは、もともと大和国の覇権争いで久秀のライバルだった筒井順慶に仕えていた武将・森好久。信貴山城内で反旗を翻し、たちまち火の手が上がる。目の前で立ち昇る火を見て、久秀は全てを悟ったに違いない。
「勝算」は間違いなくあった。しかし、たったひとつだけ、誤算が生じてしまった。それが味方だと信じていた森好久の裏切りだったのだ。
命より大事な茶釜を破壊
落城必至となった以上、このままでは平蜘蛛の茶釜を信長に奪われてしまう。自らの命は失ったとしても、それだけは絶対に避けたい。そう思ったであろう久秀は、どうやって茶釜を「爆破」したのか。
信長の家臣が書いた『信長公記』によると、久秀は天守に火をつけ焼死した。だが、平蜘蛛の茶釜を「爆破」したという記述はない。ただし、何らかの形で破壊したのは事実だろう。無事に残っていれば信長は間違いなくそれを手中にし、そのことが記録として残っているはずだ。
それにしても、これだけ堅固な城に籠城し、強力な援軍も得られたのだから、いったんは「勝機あり!」と確信したはずだ。戦いに敗れなければ、信長に茶釜が渡ることもない。まさかの展開に、泣く泣く茶釜を破壊する選択をせざるを得なかった久秀。さぞかし無念だっただろう。


