プロ野球人気の復活を託された王貞治
5月24日、福岡ソフトバンクホークスの全選手が、王貞治会長(以下、王」が監督時代に背負っていた背番号「89」の特別ユニフォームを着用して試合に臨む。王が福岡で切り拓いてきた歴史を、スポーツ文化として未来へ継承するプロジェクトの一環だ。
今でこそ福岡にとって欠かせない存在となっている王だが、32年前、今日のような光景を想像できた者はほとんどいなかった。1988年のシーズン限りで読売ジャイアンツの監督を退任して以降は現場を離れ、複数球団からの監督就任オファーを固辞し続けていたからだ。
世界の王は、なぜ縁もゆかりもない福岡の地で監督になることを決断したのだろうか。
その極秘交渉の最前線に立っていたのが、福岡ダイエーホークスで球団幹部を務めていた瀬戸山隆三だ。現在72歳になった瀬戸山は、すべての発端となった92年秋の出来事をこう振り返る。
「翌93年に福岡ドームの完成を控え、(ダイエー創業者の)中内(功※)オーナーは球団の体制を一新すべく根本陸夫さんを新監督に招聘しました。私が根本さんに引き合わされたのは、92年10月のこと。東京にある本社の社長室で初めてお会いし、帰りにビル一階の喫茶店に誘われて入りました。席に着くなり『俺はしばらく監督をするが、次はワンちゃん(王)だ』と。さらに『俺が声をかけるから説得はお前がしろ』と命じられたんです」
※正しくは「功の力が刀」
根本の意識にあったのは、猛烈な危機感だった。翌年のJリーグ発足に向け国内のサッカー熱が高まる一方、プロ野球、特にパ・リーグの不人気は深刻だった。
「自分は、巨人のことしか知りません」
それを打破するには、東京の長嶋茂雄と福岡の王貞治による「ON対決」の実現こそ唯一の道だと、根本は固く信じていた。そんな根本について瀬戸山は「球界の寝業師というより、球界全体を考える事業本部長。コミッショナーのような目線で動いていらっしゃった」と回想する。
プロジェクトの第一幕が開くのは、それから1年以上が過ぎた94年1月。舞台は東京・有楽町にあるフランス料理店「アピシウス」だ。その店には周囲の目につかずに出入りできる個室があった。瀬戸山は根本の隣に腰掛け、静かにその時を待っていた。
「根本さんは王さんをワンちゃんと呼んでいましたが、特別に親しかったわけではなかったと思います。アピシウスでの初めての会合のときも、結構緊張されていましたね」
やがて個室の扉が開き、2人の前にその男――王貞治が現れた。世界の王を福岡へ呼び寄せるための交渉劇が幕を開けた瞬間である。
このとき、王の返答は明確な「否」であった。
「自分は東京生まれの東京育ちで、巨人のことしか知りません。パ・リーグの野球も分からない。お引き受けすることはできません」
そう固辞する王に、根本が食い下がる。「シーズンが始まれば俺は会えなくなるが、この瀬戸山が連絡するから、月に一回でいいから会ってやってほしい」。王は人の良い微笑を浮かべると、「会うだけなら構いませんよ」と快諾した。2月、同じくアピシウスの個室で瀬戸山は王と対面した。当時の様子を苦笑交じりに振り返る。

