企業とは「契約の束」か「信頼関係の束」か

実際、企業という存在をそうした考え方に基づいて理論化しようとする思想が伝統的経済学では、極めて一般的である。そこでは企業とは、「会社を取り巻くあらゆる利害関係者と会社の間の契約の束(a nexus of contracts)」だと捉えられ、取引先との契約はもちろんのこと、株主・債権者・従業員・国・地方公共団体・地域住民など多くの利害関係者との間で契約が結ばれ、その集合体として企業が成立すると考える。

こうした枠組みでは経営者と従業員、さらにはそれが企業内部で幾層にもなった形態(経営者と役員層、役員層と上級管理職、上級管理職と中間管理職など)としての、上司と部下の関係も、すべて契約関係として捉えられ、交換を通じてそれが維持されていくと考えるのである。この契約関係の効果的運用の仕組みについて詳しく議論しているのが、いわゆるエージェンシーの考え方である。

米国の場合、こうした契約思想が、単なる学問の世界だけではなく、実態としても、企業と人との関係の根底にあり、特に企業の上層部にいくほど強い。そして普段は、会社はチームだとか、経営者と従業員のビジョンの共有などと一体感を強調してはいても、今回のAIGのように会社が危機的状況になると、働く人がこうした原則に立ち戻るので、契約履行のプレッシャーが表面に出てくる。いや、こうした考えが根底にあるからこそ、逆に言葉としての一体感の強調が必要なのかもしれない。

もちろん、AIGが金融セクターの会社であり、米国の雇用原則に親近感をもつ従業員が集まっていたということもあるだろうが、ほかの産業のトップの行動を見ていても、この原則への執着は強いように思う。AIGのCEOが本当に恐れていたのは、優秀な人材の流出ではなく、契約意識の表面化(不履行に対する訴訟)であったと考えられるのである。

でも、はたして企業や会社は、契約の束なのであろうか。いや、そう考えることがいいのであろうか。現在、企業を契約の束として見る考え方に対して、もう一つの捉え方が少しずつだが出てきている。それは、企業を「信頼関係の束」(a nexus of trust)として捉える考え方である。

では、信頼とは何なのか。日本(いや、世界の)信頼研究の第一人者、山岸俊男は、信頼を「社会的不確実性が存在しているにもかかわらず、相手の(自分に対する感情までも含めた意味での)人間性のゆえに、相手が自分に対してそんなひどいことはしないだろうと考えること」(『信頼の構造──こころと社会の進化ゲーム』40ページ)であると定義する。いうなれば、状況に不確実な要素があり、それに対応するため、相手は多様な行動をとるが、それが相手の自己利益のためだけに行われるのではないことを信頼するということなのであろう。