「論語読みの論語知らず」にならないために
さて、読んだ古典を、どうやって自らの血肉にしていけるでしょうか。
ただ「論語を読んだ?」「読んだ読んだ!」というだけでは、あまり意味がありません。「論語読みの論語知らず」という言葉があります。確かに論語は読んでいる、論語に関する知識もすごい。しかし、まったく実践できていない。それが「論語読みの論語知らず」です。
そのような人は古典を「消費」していると言えるでしょう。消費は英語、consumeの訳です。コンシュームの語源は「破壊」です。読んだのに、むしろそれが害になることすらある、それが消費的な読み方です。
では、古典を自分の人生と接続していくにはどうしたらいいのか。そのために、私は二つの読み方をおすすめしています。「音読」と「覚えること」です。
最初におすすめしたいのは「音読」です。声に出して読むことがとても大事なのです。ほんの数十年前まで、本は目で読むものよりも声に出して読むものでした。目で読むとスルーしてしまうようなことも、声に出して読むと引っかかる。そこで「なぜだろう」と考えるきっかけになります。古典ではありませんが、夏目漱石の『吾輩は猫である』なども声に出して読んで、その面白さが初めて伝わるように書かれています。
また、とても古い古典は、もともとは口伝えに語られてきました。それが紙に書かれて残ったのが今の古典です。たとえば『古事記』がそうですし、『平家物語』などの軍記物や能もそれにあたります。
『平家物語』なら琵琶とともに語るように
それらを朗読するときには、その時代に語られていたように読むと楽しい。
たとえば『古事記』なら、祝詞のような節回しで読む。『平家物語』なら、琵琶とともに語られていたときのようにリズムを取りながら読む。『源氏物語』なら、宮中にいる女房たちに語り聞かせるように、ゆっくりとゆるやかな抑揚をつけて読む。誰が誰に、どんなシチュエーションで聞かせていたのかを想像しながら、なりきって読むのがポイントです。
もともとそれぞれの文章は、当時の読まれ方を想定して作られているはずですから、現代文を読むように読んでは速すぎたり、単調すぎたりします。節やリズムも含めて再現してみることで、当時の人たちの感じ方ににじり寄ることができるのです。
祝詞や琵琶語り、またギリシャ語やヘブライ語による聖書の朗読や朗誦などの音声、動画もインターネット上にはたくさんありますから、参考にするのもいいでしょう。
私は10年ほど前から、現存する最古の神話といわれるシュメール神話『イナンナの冥界下り』や『古事記』の「イザナギ命の冥界下り」の物語を、原語で上演するという試みを続けています。シュメール語は、文字として定着した最古の言語です。言語が文字化されることで社会はどう変わったのか。語られていた当時と同じ言葉で演じてみることで、感じるものがあるような気がするのです。それは観客のほうも同じです。この試みも、古典が「語られていたように読む」方法の一つと言えるかもしれません。


