長男に「私はもうじき死んで煙に」
やがて道は戸山ヶ原に向かって緩やかな上り坂となる。丘陵西端にある陸軍演習場の着弾地を迂回するように道は左にカーブしてゆく。この付近には牧場があり、青々と繁る草原で乳牛が草を食むのどかな景色が広がっていた。また、牧場の先には落合の火葬場の煙突も見える。ハーンはここでよく立ち止まり、火葬場の煙突から流れる煙を眺めていたという。一雄を連れて散歩にでかけた時に火葬場の煙突を指差して、「もうじき私も、あの煙突から煙になって出ます」と言ったことがあった。
「小さな子供に言うべきことではありません。それに、まだ長生きして下さらねば困ります。あなただって孫の顔を見たいでしょう?」一雄から話を聞いたセツがそう言って諭したところ、「見たいです。しかし、難しいです。一雄の中学校へ参るを私見る難しい……」ハーンが悲しげな顔で言う。あの時の表情がセツは忘れられない。一雄の中学校入学まではたった4年、それが難しいという。弱気な発言が心配になっていた。
2km先の早稲田にも人力車で通う
東京帝国大学を解雇された後、勤めた早稲田大学は鬼子母神に行くよりも近く、屋敷からは直線距離で2キロほど。戸山丘陵を越えていった先にある。体調が万全ならば、人力車など使わずに散歩がてら歩いて通ったかもしれない。しかし、ここのところ体調を崩すことが多くなり、5月には重い気管支炎を患って喀血した。そのため散歩を自粛して、あまり遠くまでは出歩かなくなっている。
また、医師から喫煙も禁じられていた。ハーンは煙草好きで書斎にはいつも煙が充満していた。煙管の収集が趣味で、凝った装飾や彫りのあるものを100本以上も所持している。庭園を眺めながら煙管を吹かすのは、心安らぎリラックスできる至福のひと時だったのだが、その楽しみを禁じられ、さらには、焼津での海水浴も今年は中止して自宅で静養するように言われている。
散歩も自粛して出歩かなくなったぶん、執筆活動に費やす時間は増えている。この頃はすごい集中力で仕事に没頭し、大量の原稿を書き上げていた。この世に少しでも多くの作品を残そうと必死になっているような……夫のただならぬ雰囲気に、セツは不安を感じて落ち着かない。

