だから大学教授→朝日新聞社へ
それでも漱石は自分がロンドンの下宿以来あれほど苦心惨澹の準備を重ねたにもかかわらず、『英文学形式論』『文学論』等の講義が学生の心奥にひびかず、むなしく空転することを知って、苛立った。
ふだんは妻に学問上のこと、文学上のことなどおよそ話さない漱石だったが、その時は苦衷を洩したと見えて、鏡子未亡人の『思ひ出の記』に次のように出ている。妻もそれとなく察していたが、漱石は、思いつめた、あらたまった顔をして言った。
小泉先生は英文学の泰斗(たいと)でもあり、また文豪として世界に響いたえらい方であるのに、自分のやうな駆け出しの書生上りのものが、その後釜に据わつたところで、到底立派な講義ができるわけのものでもない。また学生が満足してくれる道理もない。
自尊心を傷つけられもした漱石は明治37年12月19日には野間真綱宛に書いた。
僕の事が雑誌に出る度に子規が引き合に出るのは妙だ。とにかく二代目小泉にもなれさうもない。
ハーンが英文科の学生たちの間で人気があったのは、その講義内容もさりながら、彼が『知られぬ日本の面影』以下の著書によって世界的ともいえる名声を博していたからでもあった。それに対して漱石が多少でも有名だったとしたら、それは松山・熊本時代にわずかに俳人としてであり、それも子規あっての漱石という程度だった。
そのようになにかと先輩の後塵を拝さねばならぬ漱石の居心地の悪さ――その不快感も手伝って、漱石は明治40年、大学教授の職を捨てて、喜んで朝日新聞社へ入社したのだろう。
ラフカディオ・ハーンの後任となった英文学教授は、おそらく誰であろうと貧乏籤を引いたようなものだが、それも一因で作家漱石が生れたのだとしたら、これはまた運命の悪戯というか、逆にたいへんな富籤だったことになる。
夏目講師はそのように前任者ハーンを意識した。


