奇縁とも呼べるほどのキャリアの一致
漱石は奇縁とも呼べるほどハーンの後任としてその軌跡を追った人で、すでに熊本の第五高等中学校でも、ハーンが去った1年半あとに英語教授として赴任していた。
そして漱石は、明治29年、はるか熊本まで都落ちしたと感じたその時、ハーンが逆に上京し、母校の帝大英文科の教壇に立ったことを知ったのである。しかしその後熊本で4年暮し、ロンドンで2年学び、明治36年帰朝した際、漱石は自分が押し出すような恰好でまさかハーンを帝大からほうり出し、その後任者になろうとは予期していなかった。その時漱石は内心すくなからぬ困惑を覚えたにちがいない。
もちろん漱石は、日本も独立国であり、大学も植民地の大学ではない以上、その教育も研究も次第に実力のある若手の日本人教授の手にゆだねられるのが当然の成行きである、と考えていた。それだから文部省ならびに帝大当局が外人教授の契約を更新しようとしないのを、俗世間が非難するように「忘恩」などとは考えない立場にあった。
「三四郎」に書かれた自己弁明
この件に関する漱石の自己弁明というか自負心のほどは、それより5年半後に書かれた『三四郎』中の一節、
大学の外国文学科は従来西洋人の担当で、当事者は一切の授業を外国教師に依頼してゐたが、時勢の進歩と多数学生の希望に促(うなが)されて、今度愈々(いよいよ)本邦人の講義も必須課目として認めるに至つた。そこで此(この)間中から適当の人物を人選中であつたが、漸(やうや)く某氏に決定して、近々発表になるさうだ。某氏は近き過去に於おいて、海外留学の命を受けた事のある秀才だから至極適任だらう。
という文章からも察せられよう。明治41年、漱石が「某氏」が一読して夏目自身とわかる右のような記事を作中に書くことができたのは、本人がもう大学を辞めて作家としての地位を確立していたからだった。文壇上の成功が『三四郎』の作者に過去の履歴について一種の自己満悦を許したのである。しかし5年半前、夏目金之助がはじめて本郷の教壇に立った時、その心境はまことに暗かった。

