たった3年で神戸に転居
熊本に転居してちょうど2年がすぎた明治26年(1893)11月17日、夫妻は待望の第一子を授かった。長男の一雄である。その5カ月後、夫妻は小さな一雄をともなって、金毘羅宮(香川県琴平町)にお参りした。
しかし、そのことを報告した西田宛の手紙は、次の言葉で結ばれている。「熊本が日本であるとは全然思われない。熊本は大嫌いだ」。
ハーンの熊本在住時に第五高等学校の校長だったのは、柔道家として名高く、「日本の体育の父」とも呼ばれた嘉納治五郎で、ハーンは英語も流暢な嘉納について、「一度会っただけで、久しい友であるかのような気がする」と、西田に書き送っている。だが、嘉納はハーンにとって、熊本におけるかなり例外的な存在だったようだ。長谷川洋二氏は『八雲の妻』(潮文庫)に、次のように書いている。
「ハーンの熊本への嫌悪はすぐにも、学校の同僚たちとの感情的な軋轢に発展する。東京・横浜での夏休みを挟んで、それは、感じやすく激しやすいハーンの側で、極限に達した。十月上旬、熊本での生活は破綻を来たし、一家を引き連れ、逃げるように神戸に移る」
決してムダな3年間ではなかった
ハーンとセツが3年ほど暮らした熊本を離れ、金十郎とトミも一緒に神戸に移ったのは(万右衛門は松江に帰った)、明治27年(1894)10月のことだった。
実際、ハーンの熊本嫌いは極限に達していたようで、それが日本嫌いにまでつながろうとしていた。西田に宛てた手紙にも、「日本人を理解できると信ずる外国人は、何と愚かであろう!」とまで書き、「地獄であるものを天国であると思い込んでいたのです」というのが、日本に対する感想になっていた。
とはいえ、現実には「神々の国の首都」たる松江だけが日本なのではない。小泉凡氏はハーンについて、「この時期、軍都として勢いを増していく熊本で暮らしたおかげで、『明治の日本』という近代国家の現状が、少し冷静に見えるようになった面があります」と書く(前掲書)。
松江とハーンの生誕地であるギリシャのレフカダ島は、自然条件がよく似ているといわれる。だからハーンは、日本という異文化を故郷と同一視した面があるようだが、それだけなら、ハーンの日本観はロマンティックな幻想で終わってしまう。その意味では、熊本でいだいた違和感は、ハーンの日本観が地に着いたものに成長するために、必要だったのかもしれない。


