「織田兄弟」と「豊臣兄弟」の違い

それにくらべると、秀吉と秀長の兄弟は異例で、秀吉は比較的早い時期から、小一郎と行動を共にし、全幅の信頼を寄せていた。

たとえば、秀吉が天正7年(1579)、黒田孝高に宛てた手紙には、次の文言を読みとることができる。「我らおとゝの小一郎めとうせん(自分の弟の小一郎同然だ)」。こうして孝高を褒めたたえているのだが、引き合いに出されているのが、弟の秀長(当時は長秀)に対する高い評価なのである。秀吉が秀長をいかに高く買っていたかがわかる。

実際、秀長は、秀吉がそれだけ頼るほど優秀だったということだろう。秀吉の秀長への信頼と依存は、本能寺の変以後、いっそう高まった感がある。秀長は重要な局面でこそ、決まって秀吉の名代を務めた。天正13年(1585)の四国出兵では秀吉に代わって総大将を務め上げ、同15年(1585)の九州平定では秀吉と別に10万の軍勢を率いて、島津氏の領国へ進攻した。

そして長宗我部氏や島津氏、あるいは織田信勝や徳川家康も含め、秀吉に従属することになった外様の大大名たちを秀吉の政権につなぎ止める役割は、ほとんど秀長が担った。秀長はいわば秀吉の政権の「かすがい」として機能した。

信長は「豊臣兄弟」の行く末を見通していたわけではないだろう。しかし、自分の兄弟とくらべて、あるいは周囲の戦国大名の兄弟とくらべての差異については、当然、気づいていただろう。そして、うらやましいと感じていたかもしれない。

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