兄弟対決の結果

そのころ弟の信勝は、これから織田家を引っ張るのは自分だ、という意志表示を明確にしつつあった。歴史学者の柴裕之氏は『織田信長』(平凡社)に次のように書く。

「信成(註・信勝のこと)はこの頃『弾正忠達成』と名乗っていた。『弾正忠』は、織田弾正忠家の代々の官途であり、『達』の字は、斯波義達の一字拝領をうけた織田達定・達勝兄弟にみられるように、織田大和守家との関係を示すものだ。つまり、信成は『弾正忠達成』を名乗り、清須城で斯波義銀を支えながら織田大和守家に代わり活動する信長でなく、自身こそが織田弾正忠家の当主にふさわしいと世間に示したかったのだろう」

こうして信長と信勝の兄弟は、弘治2年(1556)8月に稲生(名古屋市西区)で激突する。結果は信長の勝利で、敗北した信勝は清洲城を訪れて信長に恭順の意を示し、ゆるされた。

だが、結局のところ、兄弟の対立は解消しなかった。信勝は織田伊勢守家に近づき、伊勢守家と組んで信長に抵抗しようとした。そこで信長は、いよいよ最終手段に訴えることになった。

息子たちに継承された「兄弟殺し」

永禄元年(1558)10月ごろ、信長はまず岩倉城から織田伊勢守家を追い払った。続いて弟の信勝を、自分が病に臥せっていると偽って清須城に呼び寄せ、見舞いに訪れたところを謀殺したのである。

刀
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信長が信勝を清須城に呼んだのは、それまで信勝側に付いていた柴田勝家が、信勝に不穏な動きがあると信長に伝えたのがきっかけだと伝わる。「豊臣兄弟!」で勝家が信勝を斬るのは、このためだろう。ただし、史実においてだれがどのようにして信勝を討ったのかは、わかっていない。

戦国の世では、こうして兄弟が対立してしまった場合、それぞれの存立に関わったので、どちらかがどちらかを滅ぼすのは致し方なかったし、ありふれたことでもあった。信長の息子たちも同様だった。

天正10年(1582)の本能寺の変で、信長と嫡男の信忠が命を失って以後のこと。翌年4月に羽柴秀吉が柴田勝家を滅ぼしてのち、信長の次男の信雄は、弟の信孝の領国だった美濃国に向かい、岐阜城(岐阜市)の信孝を包囲した。そして、尾張国内海(愛知県美浜町)の大御堂寺に弟を連行すると、自刃させている。