“役立たずな古参”の排除も可能だった
この成果主義には、さらなる利点がある。「何を成し遂げたか」で評価すれば、古参だが役立たずで反抗的な家臣を、「成果を上げていない」という理由で排除することもできる。
新参者には「実力次第で出世できる」と希望を与え、古参には「結果を出さなければ地位は保証されない」と圧力をかける。この仕組みが機能すれば、組織は一気に引き締まる。
問題は、この制度が本当に機能するかどうかだ。
しかも、信長はこの成果主義による改革をハイスピードでやらなくてはならなかった。というのも、信長が鵜沼城の攻略を命じた1564(永禄7)年、信長は大きな注目を集めるようになっていたからだ。
正親町天皇の勅使が尾張に下向し、信長に禁裏御料所(天皇の直轄領)の回復や御所の修理を行うことなどの勅命を伝えたのである。
『信長公記』では、鵜沼城の攻略は8月、勅使の下向は9月となっている。つまり、信長が鵜沼城の攻略を命じた時期には、京都ではこんな噂が広がっていたはずだ。
「織田信長いう新しい衆が、今川義元を討ちはって、えらい勢いついてはるなあ。これは期待できる大名はんやわ」
鵜沼城攻略は「失敗が許されない賭け」
こうなると、信長としては期待に見合った実力を発揮できる体制を、一刻も早く作らなくてはならない。同時に、美濃を攻略して京都と自由に往来できるルートも確保しなくてはならない。つまり、組織改革と領土拡大を同時並行で進めるという綱渡りだ。
そのどちらが欠けても、信長の野望は潰える。だからこそ、藤吉郎の鵜沼城攻略は、信長にとって「失敗が許されない賭け」だったのだ。
実のところ、これは結構な難題である。
鵜沼城主の大沢次郎左衛門が、斎藤氏の譜代の臣だったかどうかは、史料によって記述が異なり定かではない(そもそも、史料によって違いがあり名前も不確実)。
ただ、いずれにせよ、まだ裏切りを考えるような状況ではない。斎藤氏は幼少の龍興が後を継ぎ、いささか混乱はしている。とはいえ、信長のほうも似たようなもので急速に勢力を拡大、義元を討ったことで、勢いは増しているが、まだ実力は測りがたい。ともすれば、時流に乗って一時的に調子がよいだけのハリボテかもしれない。
いや、むしろ事実ハリボテで信長が「えらいこっちゃ、京都からも注目されとる。このまんま、ハリボテじゃあかんがや」と頑張っている最中である。

