敵を積極的に取り込んだ信長
同じ年の4月、美濃の斎藤義龍が病死し、幼い龍興が後を継いだ。これが、信長が美濃攻略を本格化させるきっかけとなる。
ただし、信長には大きな問題があった。信長がまず目指したのは東濃地域(美濃の東部)だったが、その手前にある犬山城が邪魔だった。この城は、斎藤氏に味方する織田一族・織田伊勢守傘下の信清が守っていたのだ。
つまり「身内が敵」という状況だ。信長はこの攻略を進めながら、居城を清洲城から小牧山城へと移転している。
なぜわざわざ引っ越したのか? 居城を北部に移すことで、かつて織田伊勢守家に仕えていた武士たちを取り込むためだった。
『新修名古屋市史』第2巻では、この信長の居城移転をこう評価している。
つまり、信長は単に「敵を倒す」だけでなく、敵だった人材を積極的に自分の組織に取り込むことで勢力を拡大してきた。この征服した土地の人材もどんどん登用していく方針こそが「身分にかかわらず成果次第」という人材戦略に繋がっていく。
“合併後”に不満が溜まらない「成果主義」
理由は単純だ。新しく仲間に加わった武士たちは、もともと敵だった人間だ。古くからの家臣たちと比べれば信頼関係は薄い。
だからといって「家柄」や「古参かどうか」で役職を決めたら、どうなるか?
新参者たちは、どれだけ頑張っても出世できない。不満が溜まり、「こんな組織にいても意味がない」と離れていく。
信長の勢力拡大は、現代の会社で自社が上位の立場で、進出した地域にあった同業他社と合併したようなものだ。
同業他社との合併は、合併した後のほうが難しい。似たような経験を持ち、役職も同等の人材が一気に増える。例えば、2000年に第一勧業銀行、富士銀行、興銀の三銀行の合併で誕生した、みずほ銀行は合併後のそれぞれの出身者間で主導権争いが激化。銀行システムの統一もままならず、その後頻発したシステム障害の遠因となったとされている。
信長が直面したのも、同じ構図だった。
美濃攻略を進める中で、信長にとって最も重要だったのは「家中をどうまとめるか」だった。古参の家臣と、新しく取り込んだ元・敵側の武士。両者を納得させる方法は、完全な成果主義を打ち出すことだった。

