当時の松江城天守は倒壊寸前だった
「べらぼう」では、いつも城山(亀田山)のてっぺんに松江城天守が凛として佇んでいる。松江城は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、出雲(島根県東部)と隠岐(島根県隠岐郡の島々)の24万石に封じられた外様大名の堀尾吉晴が、慶長12年(1607)ごろから築きはじめ、同15年(1610)には天守が完成した。その天守がいまに残っている。
本丸の北東に建つ4重5階地下1階のこの天守は、現存する12の天守のなかでは、1階の床面積が姫路城に次ぐ2番目、高さは姫路城、松本城に次ぐ3番目の規模で、どっしりと構えられ存在感がある。平成27年(2017)7月には国宝に指定された。
だが、じつはセツとハーンがすごした当時、この天守はいまのように凛とした佇まいではなかった。
明治6年(1773)以降、松江城ではすべての建物を払い下げることになった。そして同8年(1875)に入札が行われ、すべての建物が解体したうえで、民間に払い下げられることになり、天守まで180円(いまの100万~120万円程度か)で落札されてしまう。元藩士の有志が現れ、天守だけはなんとか買い戻したのだが、その後は放置され、荒れるにまかされた。
松江城址は明治23年(1890)、つまりハーンが松江に着いた年に旧藩主の松平家に払い下げられ、公園化の計画が立てられたものの、豪雨の被害などで天守はさらに荒廃。ようやく明治27年(1894)に修理が行われるまでは、損壊寸前だった。修理直前に撮影されたと思われる天守の写真を見ると、壁も屋根もボロボロであちこちに穴が開き、いまにも崩れ落ちそうだ。
荒れ果てた天守をセツやハーンは、どんな気持ちで仰ぎ見ていたのだろうか。
昔と変わらぬ「小泉八雲旧居」
全国の多くの城でかなりの堀が埋め立てられ、一部しか残っていないことが多いのに、外堀を含めてよく残っている点も、松江城のいいところだ。城の中核である亀田山を囲む内堀だけでなく、城下町を囲む外堀も一部しか埋められずに済んでいる。
まずは内堀の周囲を一周してほしい。亀田山の西側を歩くと、城の裏門(搦手門)の跡があって稲荷橋が架かっている。この橋を渡って亀田山に入っていくと、パワースポットとしても知られる城山稲荷神社がある。松江藩松平家初代の直政が、藩の守護神として祀った神社で、「ばけばけ」ではヘブンと知事の娘のリヨが訪れたりしている。
稲荷橋に戻ると、そのすぐ北側から西に向かって堀が延び、新橋を渡るようになっているが、その新橋の手前に「ばけばけ」の松野家のモデル、稲垣家があった。つまり、セツの養父母である稲垣金十郎とトミ、養祖父の万右衛門が、借金をかかえて没落するまで住んでいた屋敷である。敷地は171坪あった。
そのまま内堀沿いを歩くと、城の北側から東にかけての堀(北堀)に面して、「塩見縄手」と呼ばれる通りが500メートルほど続く。ここは堀尾吉晴が城を築く際、亀田山と北側の赤山のあいだを掘削して敷設した道路で、家中屋敷(大名に仕える家臣と家族が住む屋敷)が並んでいた。
いまも板塀が続き、堀側には造成時に植えられた松の巨木が枝を垂れる。昭和48年(1973)に松江市伝統美観保存地区に指定され、同62年(1987)には建設省による「日本の道100選」にも選ばれた。北側から歩くと、ちょうど小路がはじまったあたりに小泉八雲旧居がある。
1891(明治24年)6月から熊本に移る11月までの5カ月、セツとハーンが暮らしたのがこの武家屋敷で、侍の屋敷に住みたいというハーンの希望に対し、ちょうど家主が転勤して空いていたのだという。ハーンは庭を気に入り、帰宅すると和服に着替え、三方の庭を眺めてすごした。その当時の状態がよく保たれている。


