“追いやられた人々”への強い関心
県知事の娘の夫として、失礼のないように振る舞い、恥をかかせないように言動に気を配る。民話を集めて街を歩き回ったり、貧しい人々の家に入り込んで話を聞いたりする。そんな八雲の「癖」は、きっと眉をひそめられる。
アメリカの新聞記者時代に、八雲は白人や中産階級が近寄ることがなかった下層に追いやられた人々のところを訪れ取材をしている。それは好奇心やのぞき見などではない。
八雲の事蹟で顧みられることは少ないが、来日後も八雲は同様のことを続けている。田部隆次『小泉八雲』(北星堂書店 1950年)は、八雲が西田千太郎を連れて、当時の松江にあった社会の周縁……最下層に追いやられた人々の住まいを訪れたことに触れている。
あまり語られることのないエピソードだが、この訪問を八雲は1891年6月13日の英文誌『ジャパン・ウィークリー・メイル』で詳細に報告している。
ここで、八雲は訪問前、「醜さと不潔さ」を予想していたと率直に記している。ところが実際に目にしたのは、まったく異なる光景だった。
八雲はそこにかつて自分が取材し、親しんだ人々と同じものを感じたのだろう。たっぷりとページを割いて、人々の生活を記録している。村には多くの木々があり、緑豊かで「極めて絵のように美しい」風景が広がっていた。公共浴場や洗濯場が整えられ、住人たちが清潔な衣服を大切にしていることもはっきりとわかった……。
「歌と踊り」に心を動かされた
八雲が特に心を動かされたのは、「大黒舞」と呼ばれる伝統的な歌と踊りだった。少女たちが竹と紙で作った槌、つまり大黒様の槌を模したものを左手に、扇を右手に持って歌う。別の少女たちは木製の拍子木のような楽器を鳴らす。老婆が刻みの入った2本の棒をこすり合わせて音を出しながら、滑稽な踊りを踊る……。
歌われたのは「八百屋お七」の物語だった。何百年も前、恋人に再び会うために自宅に放火し、火刑に処された美しい娘の悲しい物語である。少女たちの澄んだソプラノの声が響き、続いて低い声の女性たちが加わり、美しいハーモニーを作り出す。
八雲は1時間以上この歌を聴き続けた。歌詞の意味は分からなかったが、「全く飽きることなく、むしろ終わってしまうのが残念だった」と記している。そして、こう結論づけている。
社会の周縁に追いやられた人々の集落を訪れ、彼らの歌に心を動かし、「芸者の歌よりも美しい」と記す。そんな八雲の本質を、県知事家の一員として保ち続けることは不可能だった。

