八雲の心情を見事に表現した“朝ドラのセリフ”

「県知事閣下の娘婿が、あんな場所に出入りしている」

そういう囁きに、常にさらされ続けることになる。幼い頃から人生の辛酸を舐めた八雲にとって、淑子が若さゆえの情熱で恋心をぶつけてくることは、むしろ迷惑だったかもしれない。それどころか、八雲の本質を知らずに「英語の先生で、アメリカでは文豪らしい」程度に思っているのだから、苦痛ですらあったかもしれない。

それでも、相手を気遣ってしまうのが、八雲の生来の優しさだった。淑子の好意を傷つけないように、しかし明確に距離を置く。ドラマで用いられた「私は、1カ所にとどまれない人間なのです」という言葉は、創作だが八雲の心情を見事に表現している。表面的には放浪癖を語っているようで、実は「あなたの世界と私の世界は、根本的に違うのです」という、相手を気遣いつつの深い拒絶なのである。

八雲にとって、最も重要だったのは「精神的な共鳴」だった。息子・一雄が「肉体を離れた精神的な恋で、文章上での恋であった」と記したように、八雲は相手が自分の内面、自分の価値観を真に理解してくれることを何よりも求めていた。

しかし同時に、八雲は理想や情熱だけでは結婚生活が成り立たないことも、痛いほど知っていた。

セツは“八雲の闇を受け止める力”があった

最初の妻との結婚は、まさに理想と情熱の産物だった。異人種間結婚を禁じる州法を破ってまで結ばれた二人。だが、周囲の偏見と圧力に耐えきれず、結局は別れることになった。八雲は妻を社会の偏見から守ることができなかった。その苦い経験が、八雲に一つの真実を刻み込んでいた。

愛や正義感だけでは、社会の壁を越えられない。二人が互いを思い合っていても、周囲の世界が二人を引き裂くことがある。そして何より、相手を不幸にしてしまう可能性がある。

淑子との結婚は、まさにその轍を踏むことになるだろう。県知事の娘という地位、松江社会が彼女に期待する役割、そして八雲自身の生き方……これらはどう考えても噛み合わない。若い情熱で結ばれたとしても、やがて二人とも苦しむことになる。

八雲はそれを、誰よりも深く理解していた。

そんな八雲の前に現れたセツは、淑子にはない決定的な資質があった。それは、八雲の闇をまるごと受け止める力だった。士族ながら没落し、この世の上層と下層との現実を知る彼女は、怪談への執着、民話への傾倒、社会の影に惹かれるという八雲の性質を丸ごと受け入れることができた。

小泉八雲の妻セツ
小泉八雲の妻セツ(写真=nippon.com/小泉八雲記念館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

八雲が社会の周縁を訪ね歩き、そこで見つけた物語を語っても、セツは驚かず、責めず、ただ静かに耳を傾けた。何より、セツとの関係には「社会的な役割」が介在しなかった。

セツは、八雲の闇を恐れなかった。いや、むしろその闇の奥に灯る微かな光を見つけ出せる、稀有な女性だった。いわば、セツは八雲を照らす「闇を抱えた地上の太陽」となったのである。

淑子は未来を照らす光だった。セツは八雲の過去を抱きしめる闇だった。そして八雲が選んだのは、後者だった。

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