成績優秀な姉と「問題児」の弟

「テレビの前でものを食べないの」、「テーブルに肘をついたらいけません」、「ケチャップのボトルをテーブルに持ってきたらだめでしょう」(調味料を出すときは、小さなお皿と小さなスプーンを使わなければいけない)。母にとっては、こうしたささいなことが秩序だった生活の基本だった。

ボウル、皿、グラス、銀食器がセットされたダイニングテーブル
写真=iStock.com/Tom Windeknecht
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1962年、1年生から2年生にかけての僕は、姉のクリスティといっしょに短い坂をのぼってビュー・リッジ小学校まで歩いた。学校ではクリスティがすでに先例をつくっていて、先生たちはその型のとおりに僕も振る舞うものだと思っていた。

クリスティはルールを守る。車に乗っているときは後部座席からスピードメーターを見ていて、制限速度を超えるたびに父に知らせる。学校では慎重で、先生には扱いやすく、宿題を期限どおりに終わらせて、何より成績優秀だった。

僕はそんな子ではなかった。その数年前に母が保育園の先生に予告していたとおりだ。小学校に入るころには、家でたくさん本を読んでいた。自分で学び方を学んでいて、新しい知識をすぐに吸収できる感覚が好きだったし、物語を読んでひとりで楽しんでもいた。

だが学校の勉強はのろのろとすすむ。学んでいることに興味をもちつづけるのがむずかしく、考えがあちこちへ飛んだ。何かに注意をひかれたら、席から飛びあがったり、しつこく手をあげたり、答えをがなり立てたりした。授業を邪魔しようとしていたわけではない。すぐに心が昂ぶって抑えが効かなくなるのだ。

両親は学校の先生を夕食に招待した

ほかの子たちともうまくなじめないと感じていた。10月下旬に生まれた僕はクラスメイトの大半より幼く、見た目も実際に幼かった。小柄でやせっぽちで、声は異様にかん高い。ほかの子たちの前では気後れした。体を揺らす例の癖もあった。

母と父がほかの親よりも密に先生と連絡を取っていることは僕も察していた。ほかの家族は学年の最初に子どもの担任を夕食に招いたりするだろうか? するとは思えない。母と父には自然なことで、子どもの教育に力を入れている証だった。クリスティと僕にはただ恥ずかしいだけだ。

わが家のダイニングルームのテーブルで先生が食事しているのは、どこかおかしな感じがする。長年のあいだに辞退した先生はひとりだけだ。ツナ・キャセロールでもてなされるのは利益相反になると恐れたらしい(その先生は学年が終わってから招きに応じた)。