元ナチ党員キージンガーが西独首相に就任

1966年、幸せな生活を送っていた若い2人の歩みを大きく変える出来事が起きた。

西ドイツ首相に、クルト・キージンガーが就任した。

キリスト教民主同盟(CDU)の政治家、キージンガーはヒトラーが政権を取った1933年にナチ党に加わった。その後、積極的には活動していなかったとされるが、第二次世界大戦中の1940年からは外務省放送局に勤務。ナチのプロパガンダ普及に一役買った人物だった。

1966年に西ドイツ第3代首相に就任したクルト・ゲオルク・キージンガー(1904~1988)
写真=Wikimedia Commons
1966年に西ドイツ第3代首相に就任したクルト・ゲオルク・キージンガー(1904~1988)(写真=CDU/CC-BY-SA-3.0-DE/Wikimedia Commons

ベアテはあぜんとしたが、すぐに決意した。「一人のドイツ人として、抗議するのが義務だと思いました。私はすでに過去に何があったかを知っている人間でした」。かつてセルジュから聞かされた、ゾフィーらの話も背中を押した。

ベアテは当時、西ドイツとフランスの若者の交流を促進するために設置された事務所で働いていた。左派系の新聞に、キージンガーの就任を批判する記事を発表して間もなく、解雇された。

記事が問題視されたと考えたベアテは、セルジュと相談し、解雇不当の訴えを裁判所に持ち込むことを決める。セルジュは「家族が不当な目にあっているのに、黙っているのはおかしい。サポートするのが当然だと考えた」と振り返る。

「決定打」に至らない“反キージンガー”資料

セルジュのサポートは、法廷闘争にとどまらなかった。ベアテの「反キージンガーキャンペーン」も強力に後押しした。東ドイツに行き、キージンガーに関する資料を当局から見せてもらった。東ドイツにとっては、西を攻撃する材料が増えるのは好都合だった。

とはいえ、東に取り込まれたり、利用されたりする恐れはなかったのだろうか。セルジュは「我々と東ドイツは同じ意見は持っていなかったが、同じ敵は持っていたということです」と説明した。ベアテはキージンガーの件で、ナチ・ハンターの一人であるヴィーゼンタールとも相談したという。「でも、彼にとって、キージンガーは『案件』ではなかったのです」

2人は資料をもとに、さらに批判を強める冊子を自費出版した。

キージンガーの就任に、他のドイツ人も黙っていたわけではなかった。著名な哲学者のカール・ヤスパース、作家のギュンター・グラスらも反対の声を上げ、ヤスパースはそれを機にスイス国籍を取得したほどだった。ただ、キージンガーを追い落とす「決定打」には至らなかった。マスコミの反応も次第に慣れたものになっていった。「何を言っても、もう首相になっているのだから」ということだった。

ちなみにドイツの過去の責任を問う論客の一人だったグラスは2006年、自身がかつてナチの武装親衛隊員だったことを告白し、大きな論争を呼んだ。