ボンの西ドイツ連邦議会に向かう

粘り強く反キージンガーのキャンペーンを続けながらも、ベアテは、何か強烈なものが必要だと考えるようになった。世間を驚かし、新聞やテレビが取り上げざるを得ないような、何かだ。

1968年3月、ベアテはボンに行った。まずは西ドイツの連邦議会だった。

傍聴席のベアテは緊張していた。果たしてできるだろうか。キージンガーが演壇に立った。立ち上がり、叫んだ。「キージンガー、ナチ、辞任しろ!」

キージンガーは演説をやめ、動揺した様子を見せたという。議場にいる人々の目がベアテに注がれた。守衛が走ってきて、口をふさがれ、つまみ出された。警察で事情を聴かれたが、解放された。翌日、ベアテはドイツの新聞に拳を振り上げる自分の写真が掲載されていることを確認した。キージンガーの過去に触れたものもあった。

この年7月の朝日新聞には、ナチ犯罪の裁判にキージンガーが証人として出廷したことを紹介する外電記事が掲載されていた。被告の弁護側からの申請によるもので、かつて外務省の放送局にいたため、ユダヤ人虐殺に関する外国の報道を知っていたのではないか、などと質問された。

キージンガーは、当時の外国の報道は覚えていないし、外務省の高官会議でもユダヤ人の強制移送について話した記憶はない、と証言したという。

宣言し、そして公の場で実行した

ベアテはさらに突き進んだ。しばらく後、多くの若者たちを前にした集会で宣言した。

中川竜児『終章ナチ・ハンター ナチ犯罪追及 ドイツの80年』(朝日新書)
中川竜児『終章ナチ・ハンター ナチ犯罪追及 ドイツの80年』(朝日新書)

「公の場で首相を平手打ちします」。疑いと熱狂の声が渦巻いたというが、そこにいた者たちの中で、何人が本気でそれを受け取っただろうか。

だが、やってのけた。

1968年11月、CDUは西ベルリンで党大会を開いた。ベアテは知り合いのカメラマンの助けを借りて会場に入った。キージンガーは党幹部らが並ぶ長いテーブルの中央辺りに座っていた。テーブルのそばには警備員が立っていた。ノートとペンを手に、取材している風を装いながら、近づくベアテ。だが、今回はヤジを飛ばすだけではない。手の届く位置まで行かなければならなかった。

ベアテは、その長いテーブルの反対側に、知人を見つけたふりをした。警備員に何度か頼むと、渋々とだが、ベアテを行かせた。政治家たちが並ぶテーブルの後ろを歩き、キージンガーの背後に立てた。

「ナチ! ナチ!」。叫びながら、キージンガーに平手打ちをした。

すぐに取り押さえられ、騒然とした会場から連れ出されたが、高揚感に包まれていた。

会場に、武装した護衛官が配置されており、うち1人は銃をつかんでいたことを知ったのは、しばらくたってからだったという。

平手打ちを報じる当時の新聞とベアテ・クラルスフェルト
平手打ちを報じる当時の新聞とベアテ・クラルスフェルト(出典=『終章ナチ・ハンター ナチ犯罪追及 ドイツの80年』(朝日新書)
【関連記事】
目を見開いた中国人の喉にメスを入れた…731部隊の「死の細菌兵器工場」で行われた"人体実験"の狂気の実態
だから「ただ勤務していただけ」で有罪になる…強制収容所97歳女性タイピストが裁判で最後に明かした言葉
異民族に3000人の皇族が連れ去られ、収容所送りに…「戦利品」になった女性皇族たちがたどった悲惨な結末
「秀吉と一緒になるのがイヤ」ではない…お市の方が柴田勝家との自害を選んだ"現代人には理解できない"理由
元海自特殊部隊員が語る「中国が尖閣諸島に手を出せない理由」