「かわいそうに23歳で亡くなった」と淡々と語るツネ

ともあれ、この無名の少女・お信の存在を抜きにしては、八雲の初期像はまったく立ち上がらない。冨田旅館に滞在していた頃の八雲が、もっとも心を通わせたのはセツでも県知事の娘でもない。事蹟もあまり残らぬ少女・お信である。

桑原羊次郎『松江に於ける八雲の私生活』(山陰新報社 1953年)の中で、ツネに話を聞いた桑原は、最初からこう質問している。

「旅館滞在中にお信さんという女中がいて、八雲先生の世話をなし、八雲先生はお信さんの眼病を自費で療治せしめたと聞きますが、そのお信さんはどんな来歴の人でしたか、まだ存生ですか」

桑原がツネに話を聞いたのは1940年6月のこと。八雲が松江を去ってから半世紀近く経っているが、まだ当時を知る人々が生きていた時代である。

この質問の仕方から分かるのは、「冨田旅館で八雲の世話をしていたのはお信」「八雲がお信の眼病を自費で治療した」という話が、松江ではほぼ常識として語り継がれていたということだ。誰もがなんとなく知っている、八雲と少女をめぐる有名なエピソードだったのである。

これに対するツネの答えは、淡々としていて、むしろその無感情さが残酷だ。

「お信は出雲国能義郡広瀬町の池田というものの子でありましたが、両親に早くより死別し、その祖母に当たる人がお信の7歳の時にその弟と二人を連れて、少々のゆかりを頼って私方に参り、お信は女中代わりとして手伝いと致しまして、八雲先生の見えた時お信は15、6歳の時でした。先生のお世話は万事私とお信が致しました。先生は大層お信を可愛がって英語をお教えなさいました。そしてお信はかわいそうに23歳で亡くなりました」

旅館の夫婦は、お信を養女にしていた

7歳で祖母に連れられ、弟と共に「少々のゆかり」を頼って流れ着いた少女。両親は既に死に、頼る先もない。そんな子供を「女中代わり」として働かせ、23歳で死ぬまでその境遇は変わらなかった。ツネはそれを、まるで天気の話でもするかのように語っている。

確かに当時の感覚では、身寄りのない子供を引き取って食べさせてやったのだから善行だ、という理屈もあっただろう。だが、その「善意」の実態は、幼い頃から死ぬまで無償で働かせ続けることだったのだ。

さらに残酷なのは、冨田夫婦がのちにお信を養女にしていることである。

一見すると、これは彼女を家族として迎え入れた温情のように聞こえる。だが、当時の社会習慣を考えれば、その意味は全く違う。

養女にするということは、法的に「家の者」として固定することだ。つまり、簡単には逃げ出せなくする。労働力として完全に囲い込む手段でもあったのである。

「女中代わり」として7歳から働かせ、やがて養女の名目で縛りつけ、23歳で死ぬまで働かせ続ける。そして死後、取材に応じた老婆は「かわいそうに亡くなりました」と、まるでひとごとのように語るのだ。

まさに、お信がどういう境遇であったかが想像できる。そして、八雲が深く同情した理由もわかる。