「ぶぶ漬けでもどうどすか?」に象徴される京都人の会話は意地悪なのか。明治大学文学部教授の伊藤氏貴さんは「京都人は決して非論理的でも意地悪でもない。ただ、その暗黙のコンテクストに依拠したコミュニケーションを読み解くには、また一つの鋭い論理が必要だということだ」という――。

※本稿は、伊藤氏貴『読む技法 詩から法律まで、論理的に正しく理解する』(中公新書)の一部を再編集したものです。

草の上に飛び跳ねるキツネ
写真=iStock.com/sduben
※写真はイメージです

前後のコンテクストに理解の糸口を見出す

前回の記事では、ある一文に関して語義や一般常識というレベルでの暗黙知について見てきたが、一文だけではどうやっても理解が確定しない場合もある。

ワシはキツネと同じくらいリスが好きだ。

となると、それぞれの動物が思い浮かべられるだけではわからない。人間が小鳥好きだというのは愛玩あいがんのためだが、動物同士の「好き」は捕食関係を示すだろう、というのが暗黙知で、さらに、キツネはリスを食べ、ワシはリスもキツネも食べる、という具体的な関係を知っているかどうかが問題になる。

だがそうすると逆に、例の「AはCが好き、かつBはCが好き」とも、「AはBが好き、かつAはCが好き」のどちらの意も表しうる構文の危うさがせりあがってくるのだ。

だからこれは一文だけではどうやっても「読めた」ことにはならず、前後のコンテクスト(文脈)に理解の糸口を見出みいださねばならないことになる。

たとえば、これが「猛禽もうきん類と肉食哺乳類」に関するテクストだったとすれば、この一文は「ワシとキツネはどちらも好んでリスを捕食する」という意で書かれたのだろう。あるいは「ワシの捕食」がテーマだったならば、「ワシはキツネとリスを好んで捕食する」という意だったことになる。

いや、それ以前に「ワシ」が男性の一人称でなく、猛禽類の一種を指しているということも、文脈から無意識の裡に判断していたはずだ。

『地下室の手記』の2×2=4

ここまでは、その一文を含むテクストの他の箇所との関連で理解する、つまり文脈から意図を探るという、ある意味ではあたりまえの方法でなんとかなる。

たとえば、ドストエフスキーの『地下室の手記』にあった2×2=4という一つの同じ等式が、グロティウスの『戦争と平和の法』の中にあるのか、ザミャーチンの『われら』の中にあるのかによって、異なる意味を帯びてくる。あるいはオーウェル『一九八四』の2+2=4という似たような式も含め、どれもが表面的には同じ等式を意味しつつ、その奥で神と人間と自由について異なるなにごとかを示唆しており、それは文脈から読み取られるべきものだ(※1)

※1 ドストエフスキー、グロティウス、ザミャーチンにおいてこの等式は、不変性から不自由さの象徴となっているが、逆にオーウェルにおいては表現の自由と結びつけられていた。

しかし、それぞれのテクストの全体を読んでも、意図がわからないこともある。コンテクストがテクストの外にまで広がっている場合である。