京都人は非論理的でも意地悪でもない
しばしば日本人や日本語は非論理的であり、「日本人に論理はいらない」とさえ言われる(※2)こともあるが、それは「論理」という語の使い方による。もし明白で直接的な因果関係だけを論理というのであれば、たしかに京都を頂点とするような日本語のありかたは論理的とは言えないかもしれない。だが、先のぶぶ漬けと「帰れ」との間にあるのは、決して感覚的繋がりではない。
※2 たとえば、山本尚『日本人は論理的でなくていい』(産経新聞出版、2020年)。だが、山本自身は有機化学を専門とする科学者であり、本書も西洋型の論理だけで成し遂げられないことに対し、日本型の考え方で達成することを薦めるものだ。それは西洋から見れば論理ではないかもしれないが、一つの考え方の型として、別種の論理と言えるものである。
試みにその暗黙の繋がりを明示してみよう。
A「ぶぶ漬けでもどうどすか?」
《そろそろ食事の時間だが、Bがこの時間までいると思っていなかったので、もてなしの準備ができていない=ぶぶ漬けしか出すものがない》
B「あ、もうこんな時間に。お話が楽しくてついつい長居して。これでお暇します」
このような場合、《 》の部分が両者の間で共有されている暗黙知になる。だがこれは、決して感覚によるものではない。明示されておらず、かつ飛躍が大きいとしても、たしかに論理の糸で繋ぐことができるものだ。Bは訓練によって、Aの暗黙の糸を論理的に瞬時に悟ったのである。京都人は決して非論理的でも意地悪でもない。ただ、その暗黙のコンテクストに依拠したコミュニケーションを読み解くには、また一つの鋭い論理が必要だということだ。
日本語には日本語の論理がある
あまり外から人が入ってこず、同質的な空間が長く維持された場所独特の発展の仕方として、非常に多くの部分を暗黙の共有知としてきた。それは外部の人間からはほとんど見えないために、非論理的とも思われるかもしれないが、日本語には日本語の論理がある。「論理」というと唯一にして普遍であるように思われがちだが、数学的形式論理は一つでも、現実生活で求められる論理には、その社会に応じていくつもの型があるという(※3)。先に示した2×2=4が、置かれる場所によって異なる意図を示唆するのと同じだ。それゆえ、テクストに応じて、論理も使い分ける必要がある。論理を正しくつかむことで、相手の意図を正確に汲むことができるようになる。
※3 渡邉雅子『論理的思考とは何か』(岩波新書、2024年)は、アメリカ、フランス、イラン、日本にそれぞれ別の4種類の論理を挙げている。


