「ぶぶ漬けでもどうどすか?」が前提とするもの

たとえば、隣家の住人と道で出くわした際に、「おたくのお嬢さん、ピアノがお上手ですねえ」と言われた場合、どう返答すべきか。純粋な褒めことばととって、「いえいえ、そんなことないんです。なかなか上達しなくて」と謙遜すべきか、それとも「騒々しい」という遠回しの文句なのだと解釈して、「あら、いつもうるさくしてすみません」と謝るべきなのか。両方言っておけば間違いないが、おそらく場所が京都なら後者が正解なのだろう。

もはや都市伝説と化している、「ぶぶ漬け(お茶漬け)でもどうどすか?」というお誘いが、実は「そろそろ帰ってほしい」という気持ちをほのめかすという話は、京都というとりわけ文化的前提が長く強く共有された土地ならではのものだ。

このように、文化的コンテクストも、テクストの読解には必須の要素となる。同じ文化の中に生きているかぎりはほとんど意識されない暗黙知だが、あるテクストを深く読むためには、書き手の生きていた文化、書かれた題材の背景となる文化についてのコンテクストを知る必要がある。さらには、書き手個人の伝記的事実もコンテクストとなって、意図の理解を促すことがある(詳しくは第四講で考える)。

京都、東山八坂通りの法観寺群の5階建ての八坂塔
写真=iStock.com/Iuliia Leonteva
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京都人が「いけず」と言われる理由

書き手の意図を汲むために、どこまでこのコンテクストを広げなければならないかはその都度異なる。ただ、日本語は基本的にハイコンテクストな言語だとされている。すなわち、テクストの外部にまでコンテクストの網を張らなければ意図が伝わりにくいという特徴を持っている。先の京都人の会話などはその典型例だろう。

この点を指して、日本人や日本語は非論理的だ、と言われることも多い。たしかに、外部の人間からすると、テクストの表面上の意味と、それが意図するところのズレが大きく、そのつながりが見えにくい。同じ日本人でさえ、京都のぶぶ漬けの場合に、「あ、もうこんな時間に。そろそろおいとまします」とすぐに返せはしない。東男あずまおとこなら遠慮なく、膳が運ばれてくるのを待ってしまうかもしれない。そして障子の裏でわらわれるのだろう。

これは多分に戯画化された状況だとしても、京都人が「いけず」と言われるのは、コンテクストに依存した会話をするからであり、余所者よそものからすると不条理に見える場合がたしかにある。なぜぶぶ漬けが「帰れ」と結びつくのか、そこには京都人でなければ読めない肌感覚のようなものがあるのか。

しかし、もちろん京都に長く暮らすうちに自然に身に付く感覚的な部分があるにしても、それは決して非論理的なものではない。