硬軟を使い分けながらアメリカを味方に
1980年代初頭、アメリカではロナルド・レーガン大統領が就任していました。レーガン政権は「特別な関係(Special Relationship)」を重視し、イギリスとの連携を深める姿勢を示す一方で、南米政策の観点からアルゼンチンとの関係も維持したいという立場でした。
この複雑な構図のなか、サッチャーは強硬と柔軟を使い分けながら、アメリカに対して「イギリスの正義」を訴え続けました。必要なときには毅然と主張し、ときには妥協や協調を見せつつ、最終的にアメリカの事実上の支持をとりつけることに成功したのです。
フォークランド紛争前年の1981年2月の訪米の際、ホワイトハウスでロナルド・レーガン米大統領と語り合うサッチャー英首相(肩書はいずれも当時、1981年2月26日)(写真=Wikipedia Commons/CC-PD-Mark/PD US Government)
こうしてアメリカの後ろ盾を得たイギリスは、すでに派遣していたタスクフォースを前進させ、フォークランド諸島へ本格上陸。アルゼンチン軍の士気は低く、首都スタンレーを目指す陸上戦はイギリス軍優位で進みました。
勝利を手にし、さらに「サッチャー革命」へ
そして1982年6月14日、ついにスタンレーに白旗が掲げられ、イギリスの勝利が確定します。サッチャーは下院で、淡々と、しかし誇りをもってこう報告しました。
「スタンレーに白旗が掲げられました」
その瞬間、議場は静まり返り、そして歓喜の拍手に包まれます。その後、ある閣僚が彼女にこう告げたといいます。
「あなた以外の誰も、この勝利を成し遂げられなかったと思う」
この戦争の勝利により、サッチャーは「戦う女王」と称され、国民の信頼と政権への支持を一気に手中に収めます。そしてこれは、1956年のスエズ危機以来、地に落ちていたイギリスの国威を大きく回復させる出来事でもありました。
勝利の余勢を駆ってサッチャーは同年の総選挙で圧勝。その後、彼女は「サッチャー革命」と呼ばれる経済・社会改革を本格的に推進し、イギリスを再び世界の表舞台に立たせるリーダーとしての地位を確立していくのです。
