「雇用の不安定さ」と「冬の寒さ」が不安の原因に
もう完全な暴君。トキが一家を支えなければならないことをネタにやりたい放題しているようにも見えてしまう。とんでもないブラックな職場である。
これまでも、八雲がなにかと怒る面倒くさい面があったことは記してきたが、これには複雑な事情がある。
まず、収入である。当時の金額で月給100円は高額である。ところが、松江に到着する前、東京で交わした契約書の契約期間は「1890年9月より7カ月」。その後、延長されたとはいえ、雇用は不安定である。日本に魅了されていた八雲であったが、このままでは根付くことはできないかもしれないという不安は大いにあったことは想像に難くない。
なにしろ、紹介の話がうまいこと繋がって教師の仕事に就くことができたとはいえ、本職ではない。帝国大学に招かれて教鞭を執っている外国人は、本国でも知られた学者ばかりだが、こっちは本を何冊か出しただけの貧乏ライターである。いつ切られるか、次の仕事は見つかるかという不安が消えることはない。
そこにきて、冬の寒さである。
冬が始まって間もなく、教頭の西田千太郎は持病の結核で寝込んでしまった。八雲にとって西田は、英語で親身に相談ができる相手で、博識な彼の案内であちこちの神社仏閣をめぐることで不安を払拭していた。ところが西田が寝込んでしまえば、一人きりである。中学校の冬休みには二人で出雲大社に出かける約束もしていたのに、それもなくなってしまった。不安もあってか八雲は、毎日のように蜜柑やラムネを持参して西田を見舞っている。
“極度のノイローゼだった”という指摘もある
そんな不安のためか、正月には宿泊していた冨田旅館の女将に頼んで紋付き袴を仕立てて、人力車で街を巡ったりしていたが、とうとう風邪で倒れてしまった。識者によっては「風生をひいたのであるが、病気が昂じて極度のノイローゼになったのだ」とも語っている(池野誠『小泉八雲と松江:異色の文人に関する一論考』 島根出版文化協会 1970年)。
実際、この頃、教師の仕事を紹介してくれた東京のチェンバレン教授に宛てた手紙では、八雲が精神的に追い込まれていたことがわかる。
明治時代とはいえ、風邪で寝込んでいるだけで「もう、死ぬ」と心配しているのだから、よほど精神的に追い込まれていたのだろう。
考えてみれば、八雲はアメリカで極貧生活を送りながらも、ジャーナリストとして生き延びてきた男である。西インド諸島では熱帯病と闘いながら取材を続け、ニューオーリンズの貧民街を渡り歩いてきたタフな男が、風邪ごときで「冬があと二、三回来たら死ぬ」などと弱音を吐くだろうか。

