秀長は秀吉が関白になった後、52歳で死去
天正19年(1592)、秀長は最後の文書を出してから12日後の1月22日、52歳で死去した(『言経卿記』)。死去をうけて興福寺の多聞院英俊は、「米銭金銀充満し、盛者必衰の金口疑い無し」と評して、盛者は必ず滅亡するという立派な意見(「金口」)の通りだ、と回想している。古代以来の寺社からすると、秀長はしょせん成り上がりの権力者としかみられていなかったことがうかがわれる。
しかし、その一方で、2年後に奈良の町人衆からは、「秀長(大光院様)」の時代は何事にも御慈悲をかけられていた」と回想されているので、秀長の領国統治は、領民から高く評価されていたことがうかがわれる。
葬礼の手向けの言葉から秀長の人柄を推量
秀長の人柄について触れておくことにしたい。素材とするのは、秀長の死後に催された法事にあたって作成された仏事香語である。故人を偲んで作成されるものであり、またとくに権力者に対しては美辞麗句で飾られる傾向がある。しかし誰に対しても同じような表現がされているわけではなく、人により内容は異なっているので、誇張された表現がみられているだろうとはいえ、その人物の特徴をとらえたものとみることができ、十分に参考にできると考えられる。
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