2026年のNHK大河ドラマは豊臣秀吉・秀長兄弟の立身出世を描く。しかし、秀吉の名前が史料に現れるのは29歳のときで、それまでの人生には謎が多いという。黒田基樹監修『秀長と秀吉 天下を取った豊臣兄弟と野望に生きた戦国武将たち』(宝島社新書)より、一部を紹介する――。
重要文化財《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵
重要文化財《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵(写真=狩野光信/大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

父を失い、10代前半で流浪の身

秀吉が織田家に仕えるまで何をしていたのかについては、確たる史料がない。秀吉の死後、半世紀ほどのちに書かれた『太閤素生記』には、秀吉の放浪時代のことが以下のように書かれているが、創作の部分が多く、史実としてとらえるのは難しい。

天文12年(1543)に父を亡くした秀吉は、ほどなく寺の小僧に出されたが、寺での生活は性分に合わなかったらしく、すぐに家に戻ったという。その後、秀吉は流浪の身となり、遠江、三河、尾張、美濃の四カ国を渡り歩きながら、いくつかの職を転々としたのち、天文20年(1551)、15歳のときに再び家に戻る。

このとき、秀吉は母から亡父の遺産1貫文(約10万円)をもらって再び家を出て、清須の町で針を買い、それを売りながら東海道を東へ下った。なお、三河の矢作川の橋の上で、秀吉と野盗の親分だったとされる蜂須賀小六(正勝)が出会ったという伝説もこの当時のことだが、これは江戸時代になってからの創作とされる。

最初に仕えた松下家への「恩返し」

東海道を下り遠江にたどり着いた秀吉は、そこで駿河今川家の家臣で、遠江頭陀ずだ寺城の城主だった松下家に仕える。なお、このとき仕えたのは「松下加兵衛(之綱ゆきつな)」とされているが、この人物は秀吉と同年齢のため、実際にはその父「松下長則」だったようだ。

「太平記英勇伝十九:松下加兵衛之綱」
「太平記英勇伝十九:松下加兵衛之綱」(写真=歌川芳幾/東京都立図書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉は、松下家で草履取りとして雇われたのち、その才気が認められ納戸役(主人の身の回りの世話などを行う側近)にまで出世。しかし、秀吉の出世を快く思わない松下家の奉公人たちのいじめを受け、17歳(天文5年生まれの場合は18歳)のときに出奔して尾張に帰ったという。

なお、秀吉は後年、松下之綱を召し抱えて1万6千石の所領を与えているが、このときの恩返しの意味があったようだ。