来年のNHK大河の主人公豊臣秀長はどんな人物だったのか。当時の戦国大名の書状には、秀長は温厚で人づきあいがよく、秀吉をよく補佐する誠実な人物と記されているという。歴史の謎を探る会(編)『秀長と秀吉 豊臣兄弟の謎がわかる本』(KAWADE夢文庫)より紹介する――。(第3回)
戦わずして人を動かす秀長の接待術
秀吉配下になったとはいえ、強力な勢力を保つ諸大名は少なくなかった。彼らとの関係悪化は戦乱勃発の危険があるために、関係強化は政権の安定化に必要不可欠である。そのために行なわれたのが接待だ。
上洛・上坂した大名に対し、秀吉は積極的な接待攻勢をかけている。その場の多くには、秀長も同席していた。天正13(1585)年12月21日には、毛利家家臣の小早川秀秋と吉川元長を、秀吉自ら黄金の茶室を披露してもてなした。その翌日には、秀長が茶会を開いて2人を招待している。さらに翌年の天正14(1586)年6月14日、越後(現在の新潟県)の大名上杉景勝が上洛した際にも、秀吉は大坂城内の施設を案内している。
16日には秀長が茶会に招き、手ずから入れた茶を御馳走していた。このように、有力諸将の接待は友好関係構築のための有用な手段だった。そして秀吉政権の体制が固まるにつれ、接待は名代秀長が主導することになる。
天正14年4月6日付の大友宗麟の書状によると、秀長は温厚で人づきあいがよく、秀吉をよく補佐する誠実な人物であったとされる。まさに接待向きの人物であった。そんな秀長が接待をしたなかで、有力な大名といえば毛利家だ。前述の家臣だけでなく、当主を自ら歓迎したこともある。

