16人の側室とのあいだに53人の子をもうける

家斉が薩摩藩主の島津重豪の娘、近衛寔子ただこ(輿入れにあたって近衛家の養子にした)を正室に迎えたのは寛政元年(1789)2月のこと。実際、この時点で、側室のお万の方は家斉の子を身ごもっており、3月には、のちに尾張徳川家に嫁ぐ長女の淑子が生まれた。

このお万の方は、その後も二女、長男の竹千代、三女の綾姫を産むが、いずれも夭折している(次女は命名前に死去した)。とりわけ世継ぎと期待された竹千代の死去には、周囲の女中たちの落胆は激しかったという。

だが、家斉は正室および側室16人とのあいだに53人の子をもうける。その意味では、お万の方が生んだ子たちが早世しても、世継ぎ云々の点では大勢に影響はなかった。ちなみに53人のうち成人したのは28人だった。乳幼児の死亡率が高かった当時、成人に達するのは階級を問わず半数程度だったから、これも少ないわけではない。