96年にATOSの最初のシステムが始動。多少時間的な余裕が生じたので、プロジェクトの推進方法の勉強を始めた。
「資格が目的というより、お客様に迷惑をかけたり、自分が味わった苦労を部下に与えたくない、との反省が動機でした。システムの巨大化と同時に手がけるプロジェクトの規模がだんだん大きくなっていくのに、そのマネジメントの手法が確立していない。KKDは絶対に必要ですが、限界があります。そこで、自分の判断や行動に何か裏づけが欲しいと考えたんです」
国内外で、プロジェクト管理が学問として盛んになってきた時期とも重なった。情報処理技術に関する多くの資格を集中的に取って足元を固めると同時に、2000年にプロジェクトマネジメントの国際資格であるPMP(Project Management Professional)を取得した。
さらに02年、長期的なマネジメント手法や組織論を学ぼうと、妻と1児とともに社費で渡米。ニューヨークの大学で、工学部出身者としては珍しいMBA(経営学修士)を取得した。
04年、帰国直後にいきなり台湾へ単身赴任を命ぜられ、台湾新幹線向け運行管理システムの設計・開発の支援に回された。
「欧州の企業が受注するはずのシステムが、99年の大地震を機に急遽日本製になったので、台湾高速鉄道会社の中にはフランス人・ドイツ人がたくさんいた。その彼らがお客さんだった」
彼らは面白くないから、ヨーロッパの規格を無理やり押し付けてくる。その混乱の中で、エンドユーザーでもある台湾人のスタッフが助けとなった。
「彼らは、無事故の実績がある日本の新幹線のシステムのことをちゃんと説明したら、『それだけ実績があるなら』と納得してくれた。何とか最後は収まりました。異文化は米国で慣れたはずでしたが、ドイツとフランスの考え方の違いも含めて、非常に勉強になりましたね」
07年に帰国。ATOSセンタで、MBAで学んだことを生かした組織の刷新を図った。
「仕事にはメンバーが流動的な“プロジェクト”と固定的な“オペレーション”の2つがある。納期があるATOSは“プロジェクト”です。プロジェクトは経験者が続けて従事すべし、というセオリーがありますが、ATOSのような超長期システムがそれをすると、組織じたいが疲弊します。ATOSには、何かオペレーション的な要素を入れるべきと知った。MBAで学んでようやくわかったことです」