日本の子供の「15歳時点の学力」は世界トップレベルにある。だが「世界大学ランキング」では苦戦しており、大学生の“質の低下”を嘆く声も聞かれる。なぜそうなってしまうのか。国際学力テスト「PISA」で優秀な成績を収める5カ国を実地調査したルーシー・クレハン氏は「日本が集団主義を重んじ、小・中学校で『班活動』を行っていることが背景にある」と指摘する――。

15歳時点では優秀なのに、大学時点では質が低い?

3年に1度、15歳を対象に実施される国際学力テスト、PISA。日本はこのテストで毎回、高い順位をマークしている。一方で高等教育に目を転じると、「世界大学ランキング」の上位に日本の大学名はなく、大学生の「質の低下」が指摘されて久しい。この逆転はなぜ起きるのか?

英国の教育アドバイザーのルーシー・クレハン氏は、日本をはじめPISAの成績上位国を実地調査し、その結果を『日本の15歳はなぜ学力が高いのか?』(邦訳は早川書房)にまとめた。このほど来日したクレハン氏に、日本の教育における課題について聞いた(聞き手は早川書房編集部)。

成功を生むのは「過剰なほどの自信」

まず、「世界大学ランキング」は、学生の能力の高低を表すものではありません。その点に注意する必要があります。指標となっているのは論文の引用数や研究予算ですから、良い環境で教わることができるかどうかの判断基準にはなりえますが、PISAの順位とそのまま比べることはできません。

ルーシー・クレハン氏

そのうえで、初等・中等教育と大学教育では、求められる能力に違いがあることもたしかです。大学で必要とされる能力は、ペーパーテストに正解できる力ではありません。議論をしたり、新しいアイデアを作ったりする能力のほうが重要です。そして、欧米の学生は日本の学生に比べて、そうした能力にたけています。これは小・中学校の段階からそうですし、学力に関係なく子どもたち全般に共通して言えることです。

オックスフォード大学に通っていた学生時代、先生にこう言われました。「良い成績を取る学生は、本を読んで内容が理解できない時、自分が悪いとは思わない。著者が悪いと考える」。成功をめざすのなら、過剰なほどの自信をもって突き進むぐらいが良い、ということでしょう。良い論文は、ひとつのアイデアをつきつめて、「これがいいんだ」と主張するものです。「これもあるし、あれもある」と指摘するだけの論文は、二流にすぎませんよね。大学、あるいは社会に出てからは、自分の考えを、間違いをおそれずに自信を持って発信できる能力が求められます。

出る杭が伸びにくい日本の集団主義

日本の子どもたちにこうした自信が身につきづらいのは、日本特有の「集団主義」のネガティブな面だと言えます。

拙著に記したとおり、私が実地調査した5カ国(フィンランド、日本、シンガポール、中国、カナダ)のなかでも、「集団」を重んじる文化や制度が根づいているのが日本の教育現場の特徴でした。

例えば、日本の小・中学校では活動のほとんどを「班」単位で行いますよね。班の仲間と一緒に座り、勉強し、給食を食べ、学校じゅうを掃除する。学習成果は班の努力として評価され、個々の生徒のあいだの能力の違いはあまり問題にされません。褒められるときも、個人ではなく班が褒められます。こうした文化が、「出る杭を伸びにくく」していることは事実でしょう。

私が授業見学をした限りでは、小学生はみんな元気に挙手をしていましたが、中学生になるとそうした積極性が見られなくなるようでした。「ちゃんと整列しなさい」「もっと行儀よくしなさい」と先生から繰り返し指導されているうちに、自信を失ってしまうのだと思います。