年収1000万円以上のビジネスエリートに「好きな著者」を聞いたところ、カーネギーやドラッカーを凌いで、なんと司馬遼太郎が堂々の1位に輝いた。彼らはなぜ経営書ではなく司馬遼太郎作品を読むのだろうか。

かつて司馬遼太郎は、住んでいた大阪の街を「顔を上げて出歩けなかった」と語っていたと聞く。自分が納得する小説のため、全力投球で執筆に専念していた彼は、その結果あらゆる義理を欠いた生活を送っていたのである。

何事かをなすとき、「すべてを犠牲にしてでもやり遂げる!」という「志の高さ」は必要である。おそらく、司馬作品に登場する人物の「志」の高さは、作者本人の人生への姿勢が投影されているのだろう。なにしろ司馬遼太郎というペンネーム自体、『史記』を著した中国の司馬遷を意識してのものなのだから、その「志」の高さが推察できる。

実業界のリーダーたちが司馬文学に魅了される点もここにある。第三のキーワード「志の高さ」は、ビジネスの世界における重要な資質である。単に経営能力や知識があっても、自らの事業の行方に確固たるビジョンや高い志がなければ、息の長い成功は難しい。

「志」は、脳の前頭前野を中心とする、総合的な人格からつくりだされる。しかし実はこの「志」こそが、最も教育することが難しいのだ。英語や数学など、個々のスキルは他人が教え込むことができるが、肝心のやる気や「志」は他人が教えられるものではない。

「志」が生まれるためには内面的な感情も豊かに発達していなければならないことがわかっている。脳の司令塔たる前頭葉は脳の奥にある情動のシステムと連携を取り、そこからの投射を受けて活性化している。つまりその情動系が豊かに育まれていなければ、意欲や「志」は生まれないのである。

その点、司馬作品に出てくる人物たちは皆、喜怒哀楽に満ちている。司馬作品は、人間の豊かな情動性があってこそ、国家の行く末をも見据えるような高い「志」が生まれるのだということを、我々に示してくれているのかもしれない。

近ごろの大人たちは、最近の若者に「志」が見られないと嘆いている。だがそれは、現代人から喜怒哀楽の感情が失われてきているからではないだろうか。生きていく過程で、人は思いっきり喜んだり悲しんだりする経験を重ねていく。もし、その基本的な感情の揺らぎが硬直してしまっている時代だとすれば、高い「志」は育ちにくい。「志」の重要性を知りながら、それを育むことの難しさに苦心しているリーダーほど、ある種の「志」の型を司馬文学から会得しようとしているのではないだろうか。そして、後継の者たちにもその意思を引き継いでほしいと切に願っているのではないだろうか。

(構成=三浦愛美 撮影=若杉憲司)