昨年秋、阪神・淡路大震災から13年後の神戸を訪れる機会があった。その取材でもまた、「満州」という「時間軸」と、「沖縄」という「空間軸」が衝突する姿を目の当たりにした。

神戸の現在の都市計画の原型を作ったのは、昭和24年から五期20年にわたって神戸市長を務めた元内務官僚の原口忠次郎である。その原口は、実は満州の高級官僚として、満州国のグランドデザインを描いた中心人物だった。その都市計画を実行に移す実働部隊として駆り出されたのは、沖縄からも差別された奄美大島などから移ってきた下層労働者だったのである。

「国境」は何も国境地帯に出かけなければ見えてこないわけではない。上述のように歴史感覚と地理感覚を研ぎ澄ませば、どこに居ても「国境」は見えてくる。

さて、隠岐島と福江島である。

島根半島の北方50キロの日本海に浮かぶ隠岐島は、中世以前から遠流の地として知られ、後鳥羽上皇、後醍醐天皇などが流された。また、古代には渤海や新羅との交渉があり、現代においては韓国との間で領土問題が起きている竹島に最も近い島である。一方、五島列島最大の福江島は、古くは遣唐使船の最終寄港地となり、中国との中継貿易で栄えてきた。中世から近世にかけて激しい迫害を受けてきた「隠れキリシタンの島」としても知られ、現在も島内各地には教会やキリシタン墓地が点在し、いまもキリスト教信仰が盛んである。

いま、この島に立って思い出すのは、日本の村という村、島という島を歩き尽くし、その土地の意思を的確に読み解いた民俗学者の宮本常一のことである。宮本の卓越した観察眼の鍛え方を私流に言えば、徹底的な取材で“画素数を飛躍させる”ということになろうか。彼は最晩年、「海から見た日本」という壮大な構想を持ちながら、それを果たせずに鬼籍に入った。

陸からではなく、海から日本列島を見るとき。そして目の前の風景をなぞるのではなく、土地の古層を彫り込むとき、自ずから「国境」は見えてくるのである。


(右上から時計回りに)1.奇祭「へトマト」を代々取り仕切る男性。(福江島)2.いぐり凧保存会の面々。勇壮な凧が島に舞う。(隠岐島)3.後鳥羽上皇の墓守を先祖代々受け継ぐ男性。(隠岐島)4.水若酢神社の宮司家の婚礼。十二単が珍しい。(隠岐島)5.大陸との交流を連想させるバラモン凧の職人。(福江島)6.かつて竹島付近で漁をしていたという男性。(隠岐島)
(秋山忠右=撮影)