皇子を産み、紫式部から「国母」として政治参加せよと教えられた

しかし、彰子は出産可能な年齢になってもその徴候は一向にあらわれない。焦った道長は、寛弘4年(1007)8月、皇子祈願のために金峯山に参詣し、子守三所権現(今の水分神社)等を巡詣する。さらに、金字で自筆書写した経を金銅の経筒に入れて埋納している。

なんと、この年の暮れには、彰子が懐妊する。しかし、呪誼でもされたらたまらない。道長は、彰子懐妊を秘密にしていたが、安定期に入って公にし、寛弘5年(1008)7月に出産のため土御門邸に移る。

「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし」

紫式部日記』の書き出しである。この頃、紫式部は彰子に漢籍「新楽府」を教授する。『白氏文集』の「新楽府」は、天下の治政の混乱や世相の退廃を風刺し批判して天子に諫言し、改革を求めた諷喩詩である。紫式部は、彰子も治政に心すべきだと教えたのだった。後に、2人の皇子が天皇になり、国母として政事に後見できたのは、紫式部の教育のおかげだった、といえようか。

2人目の皇子も得て、道長が「わが世」と詠った絶頂期をもたらす

寛弘5年(1008)9月11日、難産の末、敦成親王(後の後一條天皇)を出産する。

その騒動は『紫式部日記』に詳しい。白一色の産室の廻りには、大勢の僧侶たちの読経の声、おびただしく焚かれた護摩の煙、彰子に憑いている物の怪を憑座よりましに移し調伏する修験僧たち、さらに40人以上集まった女房、殿上人、何とも喧陳けんそうの中での出産である。30時間もかけての御産だった。ましてや皇子である。道長や倫子の悦びようはいかばかりか。

「紫式部日記絵巻」の道長(画像=「紫式部日記絵巻」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

新生児誕生後の奇数日に行われるお祝い、産養うぶやしないには、大勢の殿上人たちが駆けつける。中宮彰子の役所のトップ、中宮大夫の藤原斉信が用意した中宮の御膳は、沈香木じんこうぼく懸盤かけばん、銀器など、何とも豪華だったという。

その14カ月後、さらに皇子敦良親王(後の後朱雀天皇)を産む。その2年後、寛弘8年(1011)6月13日に一条天皇が病気で譲位し、22日に崩御することを考えると、立て続けの2人の皇子出産は、道長のみならず、今に続く摂関家にとってまさに「幸運」だった。このときの彰子は24歳、87歳で亡くなるまで、60余年間、天皇家の家長として、道長親族のとりまとめ役として君臨したのである。