捕獲したクジラの鼻骨を取って埋葬して供養

作品の中の「浜のお寺」とは、金子家が代々檀家を務めていた浄土宗向岸寺と思われる。向岸寺は、仙崎の中心部から橋で渡った青海島のかよいという集落にある。穏やかな仙崎湾が望める通集落に入った。

江戸時代、この湾に入ってきたクジラを捕らえるために「鯨組」という捕鯨組織が立ち上がる。明治末期までこの地は、網取法による捕鯨漁で栄えたという。鯨漁は漁師にとって危険極まりない仕事だったが、「一匹の鯨に七浦賑わう」(1頭の鯨を捕獲すれば、7つの漁村が潤う)と言われた。

同時に、漁師らは大型哺乳類であるクジラの解体に心を痛めた。1679(延宝7)年、向岸寺の第5世の讃誉上人は、捕獲されたクジラのための法要「鯨法会」を始める。明治に入って近代捕鯨が始まると、仙崎の古式捕鯨は衰退し、姿を消してゆく。だが、向岸寺では今でも1年に一度、鯨法会が続けられている。

向岸寺の飛び地境内である観音堂の脇に、御影石でできた高さ2メートル40センチほどの大きなクジラの墓が立っていた。墓には真新しい花が供えられている。集落の人による供養は、日常的に続けられているようだ。

墓石の正面には大きく「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれ、その下に「業尽有情雖放不生、故宿人天同証佛果」とある。

撮影=鵜飼秀徳
クジラの胎児を埋葬した墓

長門市教育委員会による訳文が書かれていたので、紹介しよう。

《我々の目的は本来、おまえたち胎児を捕るつもりではなく、むしろ海中に逃してやりたいのだ。しかしおまえ独りを海へ放ってやっても、とても生き得ないだろう。どうか憐れな子等よ念仏回向の功徳を受け、諸行無常の悟りを開いてくれるように》

つまりここは、妊娠したメスの鯨から取り出された胎児の埋葬地というわけだ。元禄年間から明治末期にかけての鯨の胎児70数体が葬られているという。墓の背後の地表が、こんもりと盛り上がっているのが確認できる。

観音堂内陣には「鯨鯢魚鱗群霊」との戒名が書かれた位牌が祀られていた。「鯨鯢けいげい」とは、雄のクジラのことを「鯨」、雌のことを「鯢」と表現したものだ。

向岸寺には、捕獲したクジラ一頭一頭に戒名をつけて、供養するための過去帳(県指定有形民俗文化財)も残っている。過去帳の記録によれば、1802(享和2)年から1837(天保8)年までの36年間に242頭が捕獲されていたことがわかる。クジラの過去帳は、京都府北部の港町、伊根町にも「鯨永代帳」が残されている。そこには350頭の鯨の霊位が記されている。

撮影=鵜飼秀徳
向岸寺に祀られているクジラの位牌

仙崎から西に30キロメートルほど離れた油谷川尻港(長門市)でも、クジラの墓を見つけた。ここではクジラの捕獲の都度、鼻骨を取って埋葬し、供養したという珍しいものだ。

撮影=鵜飼秀徳
油谷川尻の鯨供養塔