漁師を3年で挫折

2009年の夏、邦彦さんは過酷な労働環境から「逃げたい」と思うようになっていた。

美保さんに「漁師を辞めたいんやけど……」と相談。この時の美保さんは、生後2カ月の長女を育てていた。邦彦さんは朝から晩まで漁に出て忙しい日々を過ごしており、育児はすべて美保さんに任されていた。

「この状態が続くなら、違う道もいいかもしれない」と思った彼女は、夫が漁師を辞めることに納得した。

だが、この決断が美保さんの父との間に溝を生んでしまう。

「家族3人とも、父に勘当されました。初孫の娘のことも『孫とは思わん』と言われて、まだ赤ちゃんなんですけど! って思いましたよ……。この時期が一番しんどかったです。娘を抱っこしながら、家でよく泣いてました」

美保さんの父親・藤原さんにも、怒る理由があった。当時、胸上港で実子以外が漁師になることは前例がなく、胸上漁業協同組合(以下、漁協)では邦彦さんを漁師にさせるのに反対の声が上がっていた。「婿養子にさせるなら受け入れる」と言われていたが、藤原さんはそういった意見をうまくかわし、邦彦さんが働けるようにしてくれていた。

そういった父の思いはのちに知ることになるが、富永一家は胸上港を離れ、市内にある6畳一間の賃貸アパートに引っ越すことになる。

筆者撮影
インタビューは2019年にできた海苔加工場で行った

“こんにゃくごはん”の節約生活

その後、邦彦さんは携帯電話基地局のアンテナを立てる仕事につく。日当は6000円で、休みを返上して働いても、赤子を育てながらの生活はオムツ代などの出費がかさみ苦しかった。

夕食はこんにゃくを足して炊いたご飯や、肉が入っていない豆腐ハンバーグを作り、食費を節約した。「この期間で、もやし料理が得意になりました。毎日、必死でしたね」と美保さん。赤ちゃんへの授乳には母親の栄養摂取は必要不可欠だが、幸い母乳が止まることはなかった。

その後、2011年に第2子である長男が生まれた。「養う人数が増えたのに、この稼ぎではやばい」と考え、邦彦さんは少しでも給料を上げようと電気工事士と陸上特殊無線技士の資格試験に挑戦。

だが、邦彦さんにとって試験勉強は簡単ではなかった。「僕、中卒だから試験問題の漢字がぜんぜん読めなかったんです。問題の意味すらわからなくて」と邦彦さんは照れ笑いを浮かべる。美保さんに単語カードを作ってもらったり、意味を辞書で調べたりしながら、無事合格した。

子どものために…再び漁師の義父のもとへ

2012年、邦彦さんは電気工事員として3年ほど働き、日当は6000円から1万6000円にアップした。安定した生活を送れるようになっていたが、彼の心はモヤモヤしていた。

「自分なりに決心して移住したのに、なんで大阪でもできる仕事をしているんだろう。漁師になるために岡山に来たのに……」

邦彦さんは美保さんに「もう一度、漁師をやってみたい」と話した。それを聞いた彼女は内心不安だったが、「よし、お父さんのところに行こう」と覚悟を決めた。