藤原彰子がひとりめの親王を産んだ年に起こった「いじめ」

五節は二十日にまいる。侍従の宰相に、舞姫の装束などつかはす。右の宰相の中将の、五節にかづら申されたる、つかはす。つかはすついでに、はこ一よろひに薫物入れて、心葉、梅の枝をして、いどみきこえたり。にはかにいとなむつねの年よりも、いどみましたる聞こえあれば……。

現代語訳「五節舞姫は、20日に参入する。参議さんぎ藤原実成さねなりに、一条天皇中宮藤原彰子しょうし様が舞姫の装束などをおつかわしになった。参議右中将藤原兼隆かねたかからは、五節舞姫の日陰のかずらを所望されたのでおつかわしになった。持参させるついでに、箱一対にお香を入れ、飾りの造花は梅の花の枝をつけて、けんを競うようにしてお贈りになった。さしせまって急に用意される例年よりも、今年は一段と競い合って立派だと評判で……。」

紫式部日記』、寛弘5年(1008)11月20日丁丑の記事である。この年の9月11日、彰子は一条天皇皇子敦成親王あつひらしんのう(のちの後一条天皇)を出産し、11月17日、親王とともに一条院里内裏さとだいりに入っていた。一条天皇、左大臣藤原道長や正妻源倫子、中宮の役所の人々、女房たち、その他、朝廷中が喜びでき返っていた。だから、五節舞姫献上者も腕によりをかけて準備をする。舞姫の衣装や装飾品などは、中宮から下賜かしされ、ついでにお香もえられている。

「紫式部日記絵巻」に描かれた道長の長女・彰子(右)、後一条天皇、後朱雀天皇の生母となった(画像=「紫式部日記絵巻断簡」/東京国立博物館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

紫式部は、男性に顔面チェックされる舞姫に同情するが…

現代語訳「当日は、中宮様の御座所の向かい側にある立蔀たてじとみに、隙間もなくずっと続けてともした火の光が、昼よりもきまりが悪いほど明るく照らしているその所を、舞姫がしずしずと入場してくる様子など、『まあひどい。無情な仕打ちだこと』と思うが、他人事ではない。これほど、殿上人が面と向かって顔をつきあわせたり、脂燭しそくを照らしていないだけのことなんだわ。舞姫は几帳きちょうを引き回して、隠してゆくといっても、なかのだいたいの様子は同じようにあらわに見えることだろうとわが身について思い出すにつけても、胸がふさがる気がする。」(『紫式部日記』11月20日条の続き)

脂燭で明るく灯された筵道えんどう(むしろを敷いた道)を、多くの殿上人や女房たちが見守るなか、舞姫が周囲を几帳で囲まれつつ歩いて入場する様子を見て、先日中宮様に同行して同じ筵道を歩いた自分に思いをいたし、男性に顔を見られる女房つとめを自省する。紫式部ならではの、著名な描写である。