※本稿は、服藤早苗『平安王朝の五節舞姫・童女』(塙選書)の一部を再編集したものです。
本来は秋に米の収穫を祝う神事が、少女たちのミスコンに
五節舞姫は、華麗な衣装を身に纏い、大勢の付添いを従え、宮中に入る。
紫式部、清少納言など、平安中期の女房たちや貴族層にとって、11月中丑~中辰に行われる五節行事は、1年で一番華やかで待ち遠しい年中行事になっていた。物語文学の『うつほ物語』『源氏物語』、歴史物語の『栄花物語』にも、宮中に集う男女が詠んだ和歌にも、そして男性の日記である記録や文書類にも多く登場する。
天皇がその年に収穫された米の新穀などを神に供えて感謝の奉告を行う新嘗祭の翌日の辰日の豊明節会で五節舞を舞うことが、9世紀にはじまったと思われる五節舞姫の本来の任務であった。ところが、殿上人や蔵人の酒宴がはじまり、院政期には、肩脱ぎや乱舞などの、どんちゃん騒ぎが定着する。
平安時代には、農耕儀礼にもとづく一年で最も大切なはずの神事である新嘗祭への天皇が次第に減少していく。それに比して、殿上人たちが、飲み・歌い・舞う淵酔(酒宴)がより賑やかに、しかも多くの場所で行われるようになり、天皇もその方を楽しむ。
10歳前後の舞姫たちが顔を見られ、美醜をジャッジされた
まさに神事から娯楽への変容である。この殿上人たちの酔っ払ったしどけない姿での歌や舞を、神事と直結させる説が出されているが、淵酔の成立過程や具体的な行動を史料にもとづき分析し位置づけてはいない。本当に、このどんちゃん騒ぎが神事なのであろうか。
娯楽のひとつとして、童女御覧がはじまる。「平安時代の美人コンテスト」と命名した研究者がいたが、顔をさらすことが恥とされた平安時代に、10歳前後の現代なら小学生の少女が、扇を取られて顔を見られ、「醜い」と列席する天皇や上層貴族、あるいは中宮・皇后や女房たちに、頤(あご)をはずして笑われるのである。「美人コンテスト」と断言する男性の視線や態度こそ問われなければならない。見る男性と特権女性、見られる童女、そこには非対称で差別的なジェンダー構造が、身分というねじれを含みつつ、透けて見える。
一条天皇と左大臣藤原道長の時代には、「左京の君事件」と呼ばれる有名な出来事があった。「五節は二十日に参る」ではじまる『紫式部日記』の五節舞姫で起きた事件である。