地域の基幹病院であり、医療の最後の砦
まずコロナ罹患者と判明した看護師たちに聞き取りを行う。患者、同僚などとの接触履歴、マスク着用の有無を確認。濃厚接触者と判定された人間も自宅待機となる。
「この聞き取りにかなりの時間がとられました」
森田は当時を思い出して首を振った。
「とりだい病院では元々、看護師が不足した場合、別の部署から回すというリリーフ体制を構築していました。足りなくなった部署に勤務経験のある看護師を他部署から回す。受け入れる側では他部署の看護師で補える仕事を調整するんです」
新型コロナの影響はこうした備えを大きく超えることになった。
「例えばコロナになった、あるいは濃厚接触者となった看護師が夜勤だった場合、他の看護師のシフトを変えなければならない。その日、翌日以降の勤務者、勤務時間も変更しなければならない」
新型コロナ罹患者を受け入れる感染病床の看護師を集めることにも苦心した。感染病床の担当をするならば、家に帰ってこないで、ホテルなどに泊まってほしいと言われた看護師もいたという。
「それぞれ師長たちは、自分たちの部署の患者さんを守らねばならない。その気持ちは分かります。しかし、コロナに罹患した患者さんの対応も絶対に必要。それでも行ってくれというのを日々言い続けるしかなかった」
もともと人員に余裕があるわけではない。感染病床に看護師を出す、他部署へのリリーフは、誰かにしわ寄せがいくことになる。
「師長たちからどこの病棟で(スタッフに)クラスターが出たのか知りたいという声があがりました。そこで週に一度、看護部でコロナ会議をオンラインで行い、情報共有しました」
クラスターとは本来〈群れ〉を意味する。コロナ禍では、複数感染者の発生を指すようになった。
病院内で罹患者が急増し、看護部崩壊という単語が何度か頭をよぎった。とりだい病院は地域の基幹病院であり、医療の最後の砦である。絶対に崩壊させてはならない。
「そこで何か困ったことないですかという感じで、各部署の問題点を師長から拾って解決策を考えるということをしていました」
“手術看護師”は患者からなにも言われてはいけない
森田は1967年に米子市で生まれた。元々は保育士になりたいと朧気に考えていたという。通っていた高校には看護師を目指す同級生が多かった。そこで国立米子病院(現・米子医療センター)附属看護学校に進むことにした。
看護師だった母親は喜びながらも「大変だよ」と言った。そのとき、小さい頃、母親は夜勤で家にいなかったことを思い出したのだ。
卒業後、神奈川県リハビリテーション病院、松江医療センターを経て、96年に鳥取大学医学部附属病院の手術部に入職した。
「神奈川県リハビリテーション病院ではICU(集中治療室)とオペ(手術)室が一緒になっていたんです。だから手術部でもある程度、できるつもりだったんですが、とりだい病院では全診療科の外科手術に対応しなければならない。もう覚えることだらけでしたね。もうプライドは全部捨てて、底辺から始めました」
手術看護師の役割の一つは、「器械出し」である。執刀する医師の側に立ち、器具を渡す――。
「手術の流れを読んで、次はこの器具が必要だろうって先回りするんです。テンポよく渡すと、手術は早く終わる。そうなれば患者さんの身体への負担が少ない」
手術前日、手順を理解するために解剖学などの書籍に目を通す。また、診療科によって使用器具は違うのはもちろんだが、渡し方も変える。
「手術を行う医師は、切開した部位から目をそらさない。基本は器具を渡しましたと伝えるためにバシッと渡します。ただ、脳神経外科の手術ではデリケートな器具が多いので、そっと渡さなければならない。慣れてくると流れの中で器具が出せるようになる」
そのときは手術看護師をしていてよかったと思いましたねと微笑む。
「だいたい(一つの科で)一人前になるのは、3年かかるって言われています。とりだい病院のように複数の診療科を担当する場合は、勉強は終わらないですね。
病棟の看護師は、患者さんからありがとうって言われることもあるんですが、手術部では、麻酔がかかっている患者さんと話をすることはない。患者さんからなにも言われないということは恙なく手術が終わったということ。言われないことがやりがいなんです」