「この指紋はのぞき見ちゃいますか」

翌16日午前、鑑識課長室で開かれた朝会。課長以下鑑識課の幹部ら10人前後が顔をそろえた。そこでの議題は橋本ら機鑑のメンバーが採取した店員の指紋についてだった。指紋が検出された現場の出入り口は内外どちらにも開閉する自由扉だった。

店外から見てドアの左端にちょうつがいがあり、ドアの右側部分を開けて通る仕組みで、ドアと縦枠の間にはわずかな隙間があった。縦枠に店員の左手の薬指と小指の連続指紋が付いていた。

そしてその指紋は、当該人物が動いているときに付着する、こすったような「擦過さっか指紋」ではなく、同じ姿勢でじっとして動いていないときに付く「静止指紋」だった。

幹部らはその点を不思議がっていた。ドアを歩いて通るときに付着したのなら擦過指紋となるはずだからだ。静止指紋が付着していたということは、何らかの目的があってこの場所で立ち止まったと考えられる。

「この指紋はのぞき見ちゃいますか」。橋本は釈然としない幹部らにこう切り出し、指紋についての自身の考察を披露した。橋本ら機鑑のメンバーが注目したのは、指紋の付着状況だった。高さ約1メートルの低い位置に、指先を店内に向けて上向いた角度で付着していた。

指紋から犯人の姿勢まで明らかになった

「普通に出入りをしていて付く指紋ではない。位置や方向性がおかしい」。橋本がこの指紋から導き出したのは、体を中腰にしてやや前かがみになった状態で左手を縦枠に添え、ドアと縦枠の隙間から左目で店内をのぞき見している男の姿だった。出前に来た店員がとる姿勢としては、明らかに不自然だった。

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橋本が説明した考察に、朝会の幹部らは驚きを隠せずにうなった。川本も「その発想は全然なかった」と正直に認める。朝会のメンバーによるこの指紋に対する価値判断は「容疑性あり」が総意となった。橋本はすぐに捜査本部の現場責任者である捜査1課殺人班の班長にこの指紋の価値判断を伝えたが……。

「そもそもここに出前でいつも出入りしているから指紋は付いて当たり前。話も聞いたがシロだ」。捜査1課の班長はにべもなく店員の容疑性を否定した。これを聞いた川本は捜査1課長に進言した。「こういう格好が推測される指紋や。犯人である蓋然性が高い。もう一度調べるべきだ」。

川本の直談判によって2度目の聴取が実現すると、男は落ちた。借金があり首を絞めて殺害して現金を奪ったと認めた。発生から4日目のことだった。