水質が悪い下町では「水屋」で水を買った

江戸時代には、多摩川を水源とする玉川上水、井の頭池を水源とした神田上水が整備され、最盛期には6つの上水があったという。

8代将軍・徳川吉宗の頃に千川上水、青山上水、三田上水、亀有上水の4つが廃止され、江戸時代を通じて、玉川上水と神田上水の2大上水が江戸庶民の生活を支えた。

当時の水道は、木や石でつくった樋を水道管として利用し、土地の高低による自然流下式のもの。現在の東京も同じであるが、江戸市中は坂が多いため、緻密な計算を要した。

公儀6000両から7500両もかけて竣工されたという玉川上水は、羽村から四ツ谷大木戸までを多摩川から地表に水路を通した開渠で流し、江戸市中には、暗渠で給水していた。四ツ谷大木戸には、水質や水量を管理する水番屋が置かれていたという。

江戸庶民たちはこの水道の汲み出し口となる井戸を利用していたが、本所・深川などの下町では、上水が隅田川を越えられず、「埋め立て」という土地の問題で水質も悪い場合が多く、飲料水に向かなかったという。

そのため、飲料用の水を売って歩いた「水屋」が江戸では成立する商売だった。水屋では1荷、すなわち天秤棒の前後の桶2つ分を、4文ほどで売ったという。現代の価格で63円ほど。あまり実入りの多い商売とは言えなかったようだ。

お風呂好きの江戸っ子で湯屋は大繁盛

江戸時代、長屋はもちろん、普通の民家にも内風呂はなく、庶民は湯屋に通った。何度も大火に襲われたため、火元となることを恐れたのが理由だった。

19世紀初め、江戸には湯屋が500軒以上あった。江戸っ子は毎日湯屋に通うほどの風呂好きだったのだ。入浴料は幕府によって公定価格が決められた。文政9(1826)年は大人6文、約95円だった。

江戸前期はサウナのような蒸し風呂が多く、現在のような浴槽に湯を張ったのは、後期である。また、もともとは男女混浴だったが、寛政の改革で風紀が乱れるとして禁止された。

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湯屋に入ると、まず番台で、お金を払う。脱衣所、洗い場と続きその先に石榴口と呼ばれる入り口がある。腰をかがめなければならないほど低く作って、熱気を逃さないようにした。その奥が浴槽だ。

洗い場には三助という奉公人がいて、客の体を洗っていた。初期には湯女という女性が行っていたが、こちらも風紀上の問題から男性となった。