男たちの社交場、2階に上がるには250円
石けんがなかったので、体を洗うには糠を袋に入れて使用した。湯屋で貸し出し、使った後は返却した。
また、女湯の洗い場には軽石と重石があり、軽石でかかとなどをこすり、重石を2つ打ち合わせて下の毛の処理をした。
男湯から2階に上がると休憩所があり、風呂上がりに世間話をしたり、将棋や囲碁を楽しんだりと、男たちの社交場となっていた。2階に上がるには16文、約250円の料金がかかった。
湯屋で働いていたのは、男は湯番と呼ばれ、湯番の責任者が湯番頭で、番台に座って湯銭を受け取り、浴場の監視をした。
垢すりは客の垢をこすり落とし、湯汲みは客の注文で湯を杓子で汲んで渡すというのが仕事だった。竈焚きは三助が行った。
伊勢参り一行の散財は250万円以上!?
「一生に一度は伊勢参り」という諺もある通り、移動の制限もあった江戸時代の庶民にとって伊勢参りは大きな楽しみであった。江戸時代を通じて4度ほど大きな「伊勢参りブーム」が起こったが、なかでも文政13(1830)年の流行は、最大級のものだった。
伊勢神宮へ詣でる人々はその手前で宮川の渡しを通るが、この年の3月末から9月までにおよそ486万人の旅人たちが川を渡ったという。
とはいえ、江戸時代の旅は、当然のことながら自分の足で歩かなければならない。江戸からは片道で20日ほど、往復で1カ月以上の旅となる。さらに参拝の後は京や大坂、西国を周遊することが大半なので、旅の行程は自然と2カ月余りになった。
旅費も馬鹿にならず、また伊勢に滞在した際の神楽奉納の初穂と世話になる人々への礼金などを合わせると莫大な費用がかかった。
各村々では伊勢講を組織し、講員で積み立てをし、集めた金で利息を取って貸し付けるなど運用して、代表者もしくは講員で参拝する方式を取っていた。
讃岐国・志度ノ浦から伊勢講でやってきた20人の一行を例に取ると、伊勢に着いた一行は、「御師」と呼ばれる伊勢信仰を全国津々浦々に伝える布教者の歓待を受ける。御師は、もとは純粋な布教者だったが、江戸時代になると、手代を通じて全国的に檀家を組織し、参宮者の旅を斡旋する営業マンのような役割を演じた。
人の一行が初穂として支払った金額は礼金なども合わせるとおよそ40両2分。現代価格にするなら252万円にもなる。現代感覚なら1200万円にも上る大金である。これに旅費が加わるのだから、庶民にはまさに一生に一度の楽しみであった。