日本式後宮の他国との決定的な違い

これが日本式の「後宮」ということになるわけだが、他の国の後宮とは決定的な違いがあった。

たとえば、中国の後宮で働くのは、女官と宦官かんがんに限られた。宦官は去勢した男性のことである。皇帝を除き、宦官以外の男性は後宮に立ち入ることができなかった。それは、后妃が皇帝以外の男性と関係を結ぶことを防止するためだった。

これに似ているのが、江戸時代の「大奥」である。日本では宦官が存在しなかったため、大奥に勤めているのは女性ばかりだった。大奥は男子禁制で、将軍以外は立ち入ることができなかった。入れる男性がいたとしたら、それは御殿医ごてんいだけだった。

宦官は、中国の文化を受け入れた朝鮮半島やベトナムの王朝にもいたし、古代のオリエントやイスラム王朝であるオスマン帝国のハレムにもいた。ところが、日本では、刑罰として去勢する宮刑が課せられたことはあったようだが、後宮に宦官が入ることはなかった。

開放的な場として描かれる七殿五舎

なぜ日本の後宮に宦官が入らなかったのか。

いろいろな説が唱えられ、家畜の去勢を当たり前に行う牧畜民ではなかったからだとも言われる。だが、そもそも日本では「男子禁制の後宮を作ろう」という構想がなかったことが決定的なのではないだろうか。

「光る君へ」でも描かれているが、七殿五舎は男子禁制ではなく、男性の公家たちが頻繁に出入りしている。そこはサロンのような役割を果たし、社交の場でさえあった。

しかも、「光る君へ」では、七殿五舎がいかに開放的な空間であったことが強調されていた。部屋と部屋を隔てるのは御簾みす几帳きちょうだけで、「藤壺」の別名をもつ飛香舎ひぎょうしゃへはじめて上がった紫式部は、他の女官たちのいびきに悩まされたりしたのだ。

写真=共同通信社
1978年3月、飛香舎と藤壺 奥座敷で皇后や内親王たち女性だけのお祝いごとに使用された建物。飛香舎の南庭にある藤棚が藤壺である。源氏物語をはじめ、平安王朝における女流文学の舞台となった場所(「御所訪問」3回続きの<中>)(53年内地 2977)

天皇の后妃は、そんな開放的な空間で生活していたわけだから、たとえ宿下がりなどしなくても、天皇以外の男性と関係を結ぶことはいくらでもできたはずである。