貴族社会の噂になった陽成天皇

実際、不義の子ではないかと噂された天皇がいた。それが、第57代の陽成天皇である。

陽成院の姿と歌(写真=http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta//CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

陽成天皇は、平安時代前期の貴族で歌人の在原業平と、第56代の清和天皇の女御であった藤原高子とのあいだに生まれたのではないかという噂である。

ただこれは、業平を主人公のモデルとしたのではないかと言われる『伊勢物語』をもとにした噂であり、事実であるという証拠はない。『源氏物語』は、この『伊勢物語』の影響を強く受けている。

しかし、こうした噂が立ち、『源氏物語』で、不義の子としての天皇が描かれたということは、そうした可能性があると、平安時代の貴族社会で認識されていたからではないだろうか。

それも、天皇の后妃が、厳重に管理された後宮に閉じ込められていなかったからである。部屋には鍵などかかっていなかった。しかもそこには男性が出入りできたのである。

后妃が天皇以外の男性と関係を結ぶことを防止しようとするなら、江戸時代の大奥のように、後宮には女官だけがいて、天皇以外の男性が出入りできないようにするべきである。大奥の場合、「七ツ口」で、男性の役人が仕事をしている場所とは仕切られていた。

となると、平安時代の後宮が開放的だったのは、意図的なものと考えなければならなくなってくる。

皇位継承のさまざまな困難

古代から、皇位をつつがなく継承していくことにはさまざまな困難がつきまとってきた。

天皇には、皇后のほかに幾人もの側室がいたわけだが、必ず跡継ぎが生まれるわけではない。不妊が天皇の側の問題であることだって、いくらでもあったはずだ。

一方、平安時代になると、摂関家である藤原氏が大きな力を持つことになった。その代表が、「光る君へ」の最重要人物藤原道長ということになるが、藤原氏としては、娘を入内させ、次の天皇になる皇子を産ませる必要があった。道長がそれに腐心する姿は、「光る君へ」でも描かれている。

娘を入内させたのに、子が生まれないということは、摂関家にとって困った事態である。天皇の外戚として権力をふるえなくなるからだ。懐妊を待ち続けるしかないとも言えるが、なかなか娘が懐妊しない場合、高い能力を持つとされた僧侶に熱心に祈禱もさせたであろう。それでも懐妊に至らなければ、非常手段に訴えることだってあり得たはずだ。

娘の側も、懐妊し、皇子を産んでこそ、その地位は安定したものになる。果たしてそのときに不義ということは起きなかったであろうか。