明治期の新聞は“政治的”だった

とはいえ、規律を徹底するだけでビジネスが好転すると語るには厳しいのが日本の現状だ。

これは簡単に記すが、経営という観点、そして会社としての新聞社にとって必要なのは、紙の代替を正しく諦めることだろう。電子版に置き換える努力は必要だが、限界はある。それよりも新聞以外で稼げるモデルを見つけたほうが生き残りへの道は切り開けるかもしれない。

ヒントになるのが冒頭の言葉だ。本山は現代的に言い換えると新聞社そのものがビジネスの主体となり、その価値を高めるに何がありえるのかを考えていた。

本山彦一氏の肖像写真。慶應義塾大学出身。大坂毎日新聞社長、貴族院勅選議員(写真=Unknown author/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

経済誌『エコノミスト』(毎日新聞出版、1998年3月24日号)に掲載された前坂俊之氏による評伝「『エコノミスト』を創った新聞界の巨人 フィランスロピーの先駆者だった」を基に本山の経歴を簡単に振り返ってみよう。

本山は福澤諭吉の門下生で、福澤が創刊した『時事新報』総編集、民間のビジネスパーソンに転じ、大阪の藤田組で児島湾開墾事業に携わった。今の毎日新聞の源流とも言える大阪毎日新聞の相談役に就任したのは1889年で、1903年に社長に就任した。彼が掲げたのが独立自営、不偏不党だった。

この言葉には少しばかり注釈が必要だろう。明治期の新聞は、今とは比べ物にならないくらい“政治的”だった。当時、かなりの売れ行きを誇った国民新聞は藩閥勢力とつながりが深く、報知新聞——今はスポーツ紙にその名を残している——は大隈重信が率いた改進党系の政党に近い論陣を張るといったように、各社は論で競った(当時の新聞の傾向は神戸大学付属図書館のサイトに概要が整理されている)。

ネットメディアの失敗を後追いするべきではない

本山が掲げた不偏不党は古巣の時事新報と同じように、どこか特定の勢力に肩入れすることないという宣言くらいに受け取っていいだろう。そして、そのために大事だったのが独立自営、つまり自前で稼ぐということだ。そのために彼は広告に力を入れ、写真広告、記事広告などを初めて設け、広告を増やすことで経営を安定させた。後年は週刊誌という新しいメディアも立ち上げて、事業を拡大した。

自由な言論空間を作るにはビジネスの主体となり、収益を得ることがなにより重要な要素だった新聞において記事が大事であることは論をたないが、稼げる方法を模索する責任が経営陣にはある。自分たちで難しいのならば、外の目を入れることも必要だろう。

いずれにせよ、インターネットのメディア空間は新聞社の代替にはなりえないなかで、まだ新聞社の社会的役割は残されている。

インターネットを開けば、複雑な事実確認の規律が緩みきって、かつエモーショナルな「政権は〜〜に支配されている」「〜〜が黒幕にいる」といった言葉が溢れているが、それこそ規律の徹底には技量が必要となることの証左だろう。感情やわかりやすい「ストーリー」、煽ったタイトル、社会運動家のような正しいオピニオンは一時の数字は確かに稼ぐ。だが、それは10年代ネットメディアの失敗を後追いすることとイコールで結ばれ、やがてジャーナリズムのオリジナリティは消失する。

新聞が率先して後を追ってはいけない。ジャーナリズムの基本に基づいた「強い」記事を出し続けられるだけの独立自営を貫き、次世代に技量を伝承するメディア企業であってほしい。

10年代に手痛い失敗を経験した私が、今思うことである。

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