新聞記者が強い刺激に引きずられてしまった

目の前にPV数やSNSでどの程度シェアされたかが表示されれば、人はそちらに引きずられていく。

エモい言葉で感情を刺激すればするほど、“平熱”の記事では届かなくなり、より強い言葉が求められるようなった。それはSNSを発火点にリベラルや保守といった党派性が強まっていく時代の先取りでもあったように思う。私はこれをネットメディアの悪しき慣習だと思っていたが、新聞記者たちもまた数字と感情に引きずられているという話をついに現場サイドからも聞くようになった。

スマートフォンを使用している人の手元
写真=iStock.com/Thx4Stock
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その中で起きたのが「エモい記事」論争だとすれば、すべては納得できる。私はすべての新聞記事に、科学的なデータやエビデンスに基づく分析が必要だとは思わない。取材によって集めていく事実の中にはエビデンス、データが含まれることもあれば、現場を歩くことによってしか手に入れることができない人々の語りを中心に据えることもある。

しかし、どんな記事であっても曲げてはいけないことがある。ビル・コヴァッチとトム・ローゼンスティールが記した標準的なジャーナリズムの教科書『ジャーナリストの条件 時代を超える10の原則』(澤康臣・訳、新潮社)に掲げられた「事実確認の規律」を守ることだ。これを緩めてはいけない。

ジャーナリズムの基礎は「事実確認の規律」

彼らがはっきりと記しているように「結局は事実確認の規律が、ジャーナリズムと、エンターテイメントやプロパガンダ、フィクション、芸術とを区別する」からだ。あらゆるエンタメは何が最も人の気を引くかに重きを置き、プロパガンダは事実を恣意しい的に用いるか、でっち上げるかして自分たちを信じさせることだけに注力する。フィクションは事実を曲げてでも彼らが「真実と呼ぶもの」を感じ取れるように物語を練り上げるという一点において、ジャーナリズムと目指す地点が変わる。

ジャーナリズムは「起きたことを正しく捉えるためにどんなプロセスを経るか」を重視することによって、初めてオリジナリティを獲得する。