親王が複数いる状態は危険

戦前であれば、秋篠宮の悲哀を理解できる人間はかなりの数にのぼったはずだ。

戦前には家督相続の制度があり、天皇家のように、代々継いでいかなければならない農家や商家があった。そうした家に生まれた男子のうち、将来において家を継げるのは一人で、次男や三男以下は、それができなかった。そうなると、他家に養子に出るか、家を出てほかに働き口を見いだすしかなかった。

天皇家の場合、天皇の位につくことができるのは、基本的に最初に生まれた第1皇子だけである。

ただ、昔は天皇が若くして亡くなることはいくらでもあり、第2皇子に即位の可能性がめぐってくることもあった。しかし、その機会が必ずめぐってくるというわけではない。

皇位の継承をつつがなく行うためには、皇位継承者が多くいたほうがいい。だからこそ、代々の天皇は、皇后のほかに側室を持ち、多くの親王や内親王をもうけてきた。

しかし、親王が複数いる状態は危険なことである。天皇のもとへ嫁いだ皇后や側室の背後には、摂関家などの公家の家があり、それぞれが自分の家に生まれた親王を即位させようとさまざまに画策するからである。

そうなると、どうしても皇位継承をめぐって争いが起こる。皇位継承は、そもそもそうした大問題を抱えてきたのである。

壮絶な死をとげた早良親王

皇位継承をめぐる争いが悲劇を生んだ典型的な例としては、早良親王の場合がある。

785年に没した早良親王は、平安京遷都をなしとげた桓武天皇の弟である。当時は、兄弟でも母が違うことがいくらでもあったが、桓武天皇と早良親王は、光仁天皇と渡来系の高野新笠とのあいだに生まれた同母の兄弟だった。

桓武天皇が即位すると、早良親王は皇太子になった。桓武天皇には安殿親王という後継者が生まれていたが、まだ幼く、早良親王は、桓武天皇にもしものことがあったときの中継ぎ役とされたのだ。

ところが、皇太子になってから4年後、早良親王は、当時造営が進められていた長岡京の造長岡宮使であった藤原種継の暗殺事件にかかわったとして皇太子の地位を奪われ、乙訓寺おとくにでらに幽閉されてしまう。

乙訓寺(写真=+-/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

しかも、淡路島に流されることになったのだが、抗議のためか、あるいは強制されてのことなのか、そこははっきりしないのだが、10日余にわたって絶食し、それで亡くなってしまう。

早良親王は元皇太子として壮絶な死をとげたことになるが、それによってのちにたたりを及ぼしたとされるようになり、最終的には「崇道すどう天皇」と諡号しごうを追贈され、その霊は丁重に祀られることとなった。

皇位継承者が複数存在すると、そうした悲劇も生まれるのだ。

「法親王」という特別なポジション

もちろん、現在と、早良親王の事件が起こった奈良時代末期とでは、時代のあり方がまるで違う。秋篠宮が自ら天皇になろうとして、謀反を企てるようなことはあり得ない。

だが、考えてみれば、天皇の子として生まれながら、皇位を継承する可能性がほとんどない親王という存在は、どのように生きていけばよいのか、人生の方針を立てることが、相当に難しいことが予想される。

実は、中世の時代においては、皇位継承の可能性のない親王には、特別なポジションが用意されていた。それが、「法親王」である。

法親王とは、出家した親王のことをさす。厳密に言うと、法親王とは別に「入道親王」がある。入道親王は親王としての宣下せんげを受けたあとに出家した場合で、出家後に親王宣下を受けると法親王となる。ただ、両者の区別は明確でないところもあり、法親王と一括してとらえてもよいようだ。

天皇になる道と仏教界を支配する道

出家して僧侶になると言えば、世捨て人の暮らしをするかのように思われるかもしれない。だが、実態はまったく逆なのだ。

中世の時代においては、宗教が政治の中心にあり、神仏への祈禱きとうや祈願を行う僧侶は、政治上極めて重要な立場にあった。

法親王は、仏教界の中心にあった比叡山延暦寺のトップである天台座主ざすに就任することもあれば、皇室に深いゆかりがあり、その点で格の高い門跡寺院の門主ともなり、国家安寧のために営まれる法要を司った。そうした祈禱や祈願は、社会にとって不可欠な行為であり、絶大な効力を発揮すると信じられていたのである。

つまり、親王として生まれた場合、天皇に即位して俗界を支配する道もあれば、出家して法親王となり、仏教界を支配する道もあったことになる。法親王は、決して世を捨てたわけではない。むしろ、国家を支える極めて重要な役割を果たすことになったのである。