けれども、人間は何かにすがりつかなければ生きていけない。家族解体によって、家族たちを扶養したり配慮したりする義務から解放されると同時に、家族から信頼され負託される機会を失った人々は、社会的承認を別のかたちで求めるようになった。あるものは「自分らしさ」の限界をめざす蕩尽的な消費に嗜癖し、あるものは「自分探し」の終わりなき旅に出かけ、あるものは族長や預言者や導師のような「新しい家父長」にすがりついた。
そうこうしているうちに、「例外的に豊かで安全であった日本社会」は「それほど豊かでも安全でもない社会」になった。そして「やはり家族がいないと生きにくい」ということを言い出す若者たちが出現してきた。別に何が変わったわけでもない。「ひとりで生きるのがむずかしい時代」になっただけのことである。
「ひとりで生きられる社会」は、繰り返し言うように、人類史上例外的な達成である。そのこと自体は言祝(ことほ)ぐべきことである。けれども、そのような幸運は長くは続かない。というのは、例外的に豊かで安全な社会では、市民的成熟の機会が失われるからである。
「ひとりでも生きられる社会」とは、言い換えれば、他者との共生能力を欠いたものでも、対立者とのネゴシエーションや、利害のすり合わせができないものでも、つまりは“幼児のままでも”生きていける社会のことである。幼児のままでも生きていける社会では市民的成熟は動機づけられない。成熟した市民が安定的に供給されなければ、システムの補正やメンテナンスを黙々と担う人間がやがていなくなる。
システムというのは「ちゃぶ台」のようなものである。誰かが外部から食物を持ち込み、誰かが調理し、誰かが配膳し、誰かが片づけるから「ちゃぶ台」は機能する。「飯はまだか」とか「オレはこんなもの喰わんぞ」とか自己都合を言い立てるものだけがいて、資源の搬入や調理や後片付けをする人間がいなくなれば、「ちゃぶ台」は遠からず腐臭を発するカオスに変じる。同じように、自己利益の追求には熱心だが、公共の福利のために配慮することにはさっぱり気が進まないという人間がマジョリティを占めるようになれば、社会はもう以前ほど豊かでも安全でもないものになる。現に、なった。私たちはもう一度、他人に迷惑をかけたり、かけられたりして共同的に暮らすノウハウを身につけ直さなければならなくなった。