ミュンヘン五輪で起きた「イスラエル選手団殺害事件」

このアイヒマン裁判により、それまであまり明らかになっていなかったホロコーストの実態が明らかになりました。当時はユダヤ人たちの中でも、詳細な事実関係について知らない人は多かったのです。

しかし、アイヒマン裁判でその凄惨せいさんな実態がイスラエル社会に改めて共有され、同時にユダヤ民族のアイデンティティが民族の悲劇を通じて強化されていきました。

そして、アイヒマンの処刑以外にも、各地に逃亡した他の元ナチス幹部が、モサドのエージェントらによって多数殺害されています。ナチスへの報復以外で有名なのが、ドイツのミュンヘン五輪でイスラエル選手団が殺害された事件への報復です。

1972年、ミュンヘンの選手村に侵入したパレスチナの過激派組織「黒い9月」のメンバーがイスラエル選手団の宿舎を襲撃し、複数の選手が殺害され、さらに人質に取られました。イスラエル軍のエリート特殊部隊サイェレット・マトカルはすぐに救出作戦のため出動準備を整えますが、ドイツ政府から入国を許可されず、事件解決はドイツの治安当局に任されました。

しかし、ドイツの治安当局の不手際のせいで人質11人全員が死亡してしまいました。イスラエル国内では、「ホロコーストの現場となったドイツの土地でまたもユダヤ人が虐殺された」という衝撃が広がりました。

写真=iStock.com/Travel Photography
※写真はイメージです

「モサドはいついかなる場所でも攻撃できる」

当時のゴルダ・メイア首相はイスラエル議会で、「我々は見つけ次第、テロ組織を攻撃するしかない。それは我々と平和への義務である」と述べて復讐ふくしゅうを誓います。

豊島晋作『日本人にどうしても伝えたい 教養としての国際政治 戦争というリスクを見通す力をつける』(KADOKAWA)

その後、モサドなどの諜報機関は軍とも連携し、「黒い9月」メンバーを次々と暗殺していきました。この史実は、スピルバーグの映画「ミュンヘン」の主題になったことでも知られています。モサドは早くも翌年の1973年に、軍との合同で「若き日の青春」作戦を発動し、レバノンのベイルートにいた、ミュンヘン事件の首謀者だった3人の「黒い9月」幹部を暗殺します。

バーグマンの本によれば、事前に偽造パスポートで複数の工作員がベイルートに入り、情報を集めてターゲットの住む住宅などを確認し、作戦当日は海軍のミサイル艇からゴムボートに分乗した約70人の特殊部隊員が現地に乗り込み、銃撃戦を繰り広げて3人の標的全員を殺害するという空前の規模の暗殺作戦でした。まさに国家の総力を挙げて復讐を実行したのです。

バーグマンは、この作戦の成功で「モサドはいついかなる場所でも攻撃できるという神話がアラブ世界に広がっていった」と書いています。