自分はどういう死に方を望むのか

別に、長生きして経験を活かし社会に貢献したい、というような立派なことでなくてもいい。夫婦で温泉旅行をしたいとか趣味の写真を撮り続けたいとか、自分が楽しいと感じることなら何でもいいと思います。

写真=iStock.com/NicolasMcComber
※写真はイメージです

私みたいに年間200軒以上ラーメン屋をめぐっていれば、1年長生きできたら行けるラーメン屋が200軒は増えるわけです。

ぜひ、長生きしてよかったと思えるものをつくってください。

そういうものをつくっておかないで、ただただ長生きしているだけなら、単なる延命と同じじゃないのかなという気がします。

もちろん、1日でも長生きしたいから、そのためにはどんな医療でも施してほしいという人もいるでしょう。それはそれで結構だと思います。

死生観にしろ、理想の死に方にしろ、人それぞれです。正解はありません。

だからこそ、自分なりの死生観を持つことが大事です。残りの人生をより自分らしく生きるためにも、自分はどういう死に方を望むのか、老いの入り口に立ったら一度は真剣に考えておいたほうがいいと思います。

想定外だった父親の最期

私の父親は86歳で亡くなりました。父は死ぬまでの7カ月間、人工呼吸器につながれていました。これは、私にとって想定外の出来事でした。

父はタバコの吸いすぎで肺気腫になり、それが悪化して入院していたのですが、ある日、病院から「呼吸状態がひどいので、気管内挿管をしてもいいですか」と電話がかかってきました。そうしないと、今晩中に亡くなるかもしれないと言うのです。

私は東京、父は大阪で入院していましたから、死に目にも会いたいし、担当医に「お願いします」とうっかり言ってしまった。

気管内挿管を承諾するということは、その後、気管切開をして人工呼吸器につなぐというところまで同意したことになってしまうのです。医者でありながら、そのときは、それをまだ知りませんでした。

人間というのは意外にしぶとい生き物で、肺気腫を患っているにもかかわらず、呼吸器につながれるとなかなか死ねない。中心静脈栄養という、太い血管に高カロリーの栄養が入る点滴もしていましたから、生きられる。

胃ろう(腹部に開けた穴にチューブを通して胃に直接食べ物を流し込む医療措置)を行っていれば、より確実に栄養が保たれて元気になりますから、おそらく死ぬのはもっと遅れるでしょう。

ずっと意識がない状態で生きているのは、ずっと気持ちよさそうに寝ているように見えなくもないのですが、医療費の無駄かもしれないなと思いました。

それまでは患者さんが同じような状態でいるのを見ても、患者さんを生かすことばかり考えていて、医療費のことなど考えたこともなかったのですが、初めてそう思い至りました。