ボーイング社を提訴すれば日米関係にひびが入る

「ロン・ヤス関係」が出来上がった後、1985(昭和60)年8月12日に日航ジャンボ機墜落事故が起きる。

木村良一『日航・松尾ファイル 日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか』(徳間書店)

日本航空がアメリカを代表する企業であるボーイング社を提訴すれば、中曽根政権が築いた日米関係に大きなひびが入る。

中曽根はレーガンと強く結び付いていた。そんな中曽根政権下でボーイング社を相手に訴訟を起こすことなど到底不可能なことだった。

結局、日航はボーイング社を提訴することはなかった。

高木はアメリカとの外交上、日本が不利益にならないように中曽根政権から求められていたのかもしれない。

あるいは高木自身が日本の将来をおもんばかったのかもしれない。

墜落事故から2日後の8月14日午後、高木は首相官邸に中曽根を訪ね、事故の謝罪と辞任の意向を伝えている。

そして12月18日に社長を辞任し、相談役に退いた。

「日航の民営化」を推し進めていた

中曽根政権は一連の行政改革のなかで、日航の民営化を推し進めていた。墜落事故が起きる1カ月前の7月には、総務庁の初代事務次官、山地進(1925年5月12日〜2005年5月27日、享年80歳)を常勤顧問に送り込んでいた。

日航では8月12日の墜落事故当日、日航123便(JA8119号機)が御巣鷹の尾根に墜落する数時間前に経営会議が開かれ、社長の高木をはじめとする役員たちが完全民営化の方針を決定している。

事故後の12月18日に高木が社長を退くと、中曽根は自分が気に入っていた鐘紡(カネボウ)社長の伊藤淳二を社長に推した。

しかし、人事が混乱するなどうまくいかず、伊藤を会長に据え、社長には山地を起用した。この伊藤・山地体制で日航は1987(昭和62)年11月に完全に民営化される。

中曽根は日航社内で人望のあった、初の生え抜き社長の高木を墜落事故の責任を取らせる形で辞任させ、高木に従う役員も辞めさせるなど日航という半官半民の会社をうまく掌握しながら完全民営化を推し進め、それを成し遂げた。

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